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短編集109(過去作品

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 しかし、学校に行くようになると今度は、
「よかったわ。これで俊も立ち直ったんだわ」
 と、親や周囲は一安心していた。別に何が変わったというわけではない。ただ、波風を立てたくなく放っておいてほしいだけなのに、騒ぐからであった。それなのに、勝手に立ち直ったと思われるのを本意ではない。そんな心のジレンマを、藤堂は自分でどうすることもできないでいた。
 要するに悩みもあってないようなものである。漠然としていて、それが本当に悩みなのか何なのか自分でも分からない。
 その時に他の友達もいろいろな悩みを持っていたように思えるが、彼らがどんな悩みを持っているか分からなかった。それでも同じような悩みの人というのは、意外と分かるもののようで、友達の中にたくさんいたりするから不思議である。
「類は友を呼ぶ」
 というが、悩みというものも「類」に当たるのだと思うと面白い。
 同じ悩みを持った者同士、結構話をしているようである、それが自然とグループを形成していって、行動パターンも一緒になってくる。
「気がつけば悩みは解消していた」
 何ていうことも多いようで、一緒にいれば自然とそれぞれを補おうとする本能が働くのかも知れない。いつも一人でいる藤堂には分からないことだった。
 藤堂は、
「自分で納得したこと以外は信じられない」
 と嘯いていた。
 まわりに流されるように生きている割に矛盾しているのだが、ただ、それは人に逆らいたくないという思いだけで、小学生低学年の頃などは、勉強も遊びも中途半端で、ほとんどしていなかったかも知れない。
 部屋でゲームをしている今の子供たちの気持ちが一番分かるのではないかと思えるが、藤堂にしてみれば、
「一緒にされてはたまらない」
 というに違いない。
 なぜなら、他人と比較されたり、他人の考えを押し付けられるのを本能的に嫌っていたからだ。人に逆らわないのも、自分としては納得ずくだったはず。どうしてもジレンマに襲われるのを免れることができないのも仕方のないことである。
 無責任なところもあった。
 小学生の頃から何も考えずに発言することがあり、そのせいで、人から疎ましく思われていたのだが、そのことを自覚していなかった。テレビの影響が大きかったのかも知れない。ヒーロー物アニメに憧れて、主人公のセリフを覚えたり、なれるはずのない主人公と勝手に自分をダブらせたりしたのだ。
 アニメの主人公はいつも冷静で、そのくせ、クライマックスでは熱くなる。実社会ではわざとらしく感じることも、アニメの中でなら許される。憧れはいつしか自分の理想の世界へと変わった。
 アニメを描きたいと思った時期があった。
――今の僕なら描けそうだ――
 どこに根拠があったのか分からない。根拠があったとすれば、モノを作り出すことが好きで、自分の世界を作り上げればすべてうまくできると思い込んでいた時期があった時かも知れない。
 今でもそんな気分に陥る時がある。逆に社会人になって学生時代のような感受性の強さを感じなくなると、ふと自分の世界が本物ではないかという錯覚に陥るのだ。高校生の頃と今の自分、完全に変わってしまったのであろうが、一体どこで変わってしまったのか、考えてしまうこともあったりする。
 自分で錯覚だと分かっているつもりなのに、それを否定できないのは、学生時代のように確固とした目標を誰もが持たなくなったからだろう。視界が狭くなったのである。
 学生時代に何をしたいかの目標ができた時は嬉しかった。それに向って勉強し、いずれ就職活動に活かせる。しかし、自分の勉強した分野に進めるかというと、ところがどっこい、なかなか進めない。
 もし進めたとしても、入社すれば、自分の立場を決めるのはすべて会社である。会社の都合で決められてしまって、自分の目標と違うところへ配属になったりする。
 さもありなん、まだ目標が決まっていない学生時代であれば、目標分野に掛けては他の人よりも長けていたかも知れないが、実際にプロの集団として入社してしまえば、まわりはその道のプロばかりということも往々にしてあるだろう。
「井の中の蛙……」
 とはまさしくこのことである。
 だが、アニメはあくまで趣味だった。最初こそプロになりたいとまで思っていたが、実際のアニメ業界の実態を知ると、なかなか自分の入れる隙間のないことを思い知らされた。なりたい人は山ほどいて、なったとしても、売れる売れないはスターダスト。その時になって後悔しても後の祭りである。
 中学の時にそのことを感じたのは早い時期だっただけに不幸中の幸いだった。
 自分が無責任なことを平気で言う人間だということに気付いたのは、その頃からだったかも知れない。
 まわりをあまり気にしなかった藤堂だったが、さすがにアニメ業界のことを気にし始めると、まわりの人をいやでも意識するようになっていた。
 まわりを気にしているつもりで、それまでの藤堂は気にしていなかったのだ。なぜならまわりを見る時、すべて自分がアニメのヒーローにでもなったかのような錯覚に陥っていた。そのことを誰にも話したことはない。中学にもなって、アニメのヒーローに憧れて、まわりを見る時、勝手になりきっていたなど、恥ずかしくて人に言えるわけもない。
 中学の時、友達に定期的な発作を起こす友達がいて、そのことはまわりの人は皆知っていて、暗黙の了解のようになっていた。
 藤堂も知っていたはずだったが、さすがに初めて目の前で発作が起こった時はどうしていいのか分からずに、まわりの友達のテキパキとした対応を見ているだけだった。
 誰かが救急車を呼んでいた。救急車が来た時にはある程度発作も収まっていて、皆ホッとしていた。それでもせっかくきてもらった救急車ではあるし、安全を期すことも大切だということで、友達代表一人を乗せて、救急病院へと向ったのである。
 子供心に修羅場を見てしまったという思いが収まると、救急車に乗っている友達が痛々しく見える。
 そのまま黙って送り出せばいいものを、
「おーい、ちゃんと精密検査受けるんだぞ」
 遠ざかる救急車めがけて叫んでいたことだけは、ずっと後になっても忘れられない。
 後から思い出すと、顔が真っ赤になるほど恥ずかしいのだが、その時、友達の一人が、
「んなこたあ、言わなくたって分かってるさ」
 ぼやくように呟いたのが印象的だったからだ。もしそこで消え入るほど低い声で呟いたのを聞かなかったら、自分がそんな恥ずかしいセリフを吐いたことすら覚えていないに違いない。
 そんな時に、
――僕って結構、無責任なことを言うんだな――
 と思ってしまって、しばらくは、人にアドバイスなどできなくなっていた。少なくともアニメをあまり見なくなったのはそれからのことだった。
 アニメを見なくなって小説に興味を持ってきた。小説はビジュアルに訴えるわけではなく、描写や人物はすべて想像である。
 人気の小説はドラマや映画化される。ビジュアルになってテレビで見たり映画館に行くと、なぜか失望させられることが多い。
「やっぱり原作には叶わないな」
作品名:短編集109(過去作品 作家名:森本晃次