短編集109(過去作品
男にとって物足りなさはあるだろう。だが、時々見せるはにかんだような表情は、それなりに胸の鼓動を誘う。女性を抱きたいと思う気持ちは、普段とはまったく違っている。それなりに心の整理をつけないとできないものだと静雄は思っている。
いきなりだと女性が引くのも、心の整理をつけているからである。特に自分の中のものをすべて出し切るくらいの気持ちが相手に対してないとできないことだと思っている女性は多いだろう。
彼女が話していたのは、以前セクハラまがいのことを受けたことがあるということだった。
静雄と知り合う前、会社で上司から目をつけられていたようだ。その上司も相手はとっかえひっかえであった。誰でもいいのだ。ただの趣味のようなもので、大きな問題にならなければいいということしか考えておらず、実際に友子は静かな性格で、あまり事を荒立てることはなかった。
それでも危ないと思ったのか、友子が切れる寸前に、あっさりと手を引いたようだ。
「そのあたりは上手なのね」
苦笑いをしていたが、
「どうして、その話を僕に?」
「あなたが話しやすいの。私が考えていることを素直に聞いてくれて、素直に答えを返してくれるような気がして。期待している答えが返ってくると嬉しいし、期待していない答えも新鮮に感じられるの」
「それはありがたいね」
「それにね、静雄って、素直なのよ。素直な男性に惹かれることって、そんなにあるわけじゃないけど、そんな男性を女性も捜し求めているものなのよね」
「僕ってクールなところがあるからな」
「クールと素直では少し違うわね。クールな人でも素直だったら、熱いものを感じることができるし、熱い感情を持っていても、クールな人はいっぱいいるんでしょうね」
どこが違うのかよく分からない。友子はセクハラに対してどのような感情を持っているのだろう? 一緒に話をしていて、それほど嫌がっている雰囲気はない。それが静雄には苛立ちに繋がったのだが、ベッドの中での会話という特殊な感情の中で、麻痺している感覚があるとすれば、それを感じた瞬間なのかも知れない。
友子にとって静雄は、話を聞いてくれる相手としては最高だったかも知れない。静雄も自分では聞き上手だと思っているし、聞きたいことへの意見を適切に返せると思っていたからであるが、その気持ちは男性が女性に抱く恋愛感情だと思っているのは静雄の方で、友子がどこまで感じているか、ベッドの中では分からなかった。
――抱き合っていれば、それだけで、距離は次第に近くなってくる――
限りなく一緒とも言える距離に近づく瞬間というのがあるのだろうか?
会話の中で麻痺してくる感覚は心地よいもので、まったく距離を感じないのは、心地よさが麻痺した感覚だという意識を感じさせないからなのかも知れない。
友子は静雄のことをどう思っているのだろう?
静雄は友子とその日別れてから、しばらくの間、友子の匂いや感触が身体に残っていた。甘い感覚が身体を覆っている間、そばにいることの違和感はまったくなかったが、実際に感覚が戻ってくると、友子への感情が強いものだという意識が頭を擡げた。
それが本当に愛情だったのかが分からなくなってくる。愛情と感情では違うものだということを考えたのは、おそらくその時がはじめてだったであろう。
――彼女は友達なのかな――
と考えるようになった。友達としてなら話が続きそうな気がしたのは、最初に出会った日に、彼女と抱き合うまでにどんな会話をしたのか思い出したからだ。
甘いワインのほろ酔いを感じながら友子が話していた。
元々田舎で暮らしていたのだが、以前見かけたと思っていた萩にも実は住んでいたことがあるらしい。それは小さな頃で、小学生の頃だったという。
萩という街で暮らしている時、近くに古井戸があったという。その古井戸は友子が住んでいる頃にはすでに使用していなくて、井戸の上には鉄格子のような柵が施されていたという。人間の落下防止のためだろう。
しかし、鉄格子のような柵の間から、蔦のようなものが生えてきて、まわりが森になっていて、年中湿気を帯びていることもあって、あまり気持ちのいいものではないという。
古井戸は、明治時代に長州藩から出た伯爵の別荘があったところに残っているもので、今は誰も管理しておらず、近づくこともできない。
庭には草木が生え放題、完全に森と化した跡地には、立ち入ることを許さない看板がしてあった。
ちょうど友達のお兄さんが冒険心が豊かだったようで、冒険を試みたようだ。最初は数人で組織された「探検隊」も、いざとなると一人減り、二人減り、最後はお兄さんと、もう一人だけになったようだ。
もう一人も結局屋敷に立ち入る前に怖気づいて、立ち入ったのはお兄さんだけ、まだ明るい時間だったにもかかわらず、雲の流れの早さにもう一人は怖気づいたということだった。
ただ、行かなかった連中は、お兄さんの行動が気になって仕方がない。
夕方近くになっても帰って来ないこともあって、親に相談すると、親たちが警察に連絡し、屋敷内へ立ち入り彼を捜索したところ、ちょうど井戸のあたりで眠っていたということだ。
誰に襲われたわけでもなく、
「ただ、急に睡魔が襲ってきて」
というとおり、眠っていただけだった。井戸の周辺には少しアルコールの匂いがあり、腐敗した草木と湿気が絡み合ってそんな臭いを発生させたとの見解であった。
「これじゃあ、眠くなるよね」
といいながら、とりあえず病院に連れていかれたのだが、幸いなことに外傷はなかった。だが、どこかからか記憶が欠落しているようだった。
普通に生活するには大丈夫なのだが、なぜか友子との記憶になるとほとんど欠落していて、わざとらしいのではないかと思えるほど覚えていなかったらしい。
「彼の心の中に、私へのわだかまりのようなものがあったのかも知れないわ」
「何か彼との間にあったのかい?」
「何があったというわけではなかったんだけど、彼は友達としてしか思っていなくて、私は彼のことを好きだという意識でずっと見てきただけなの。それを彼が分かっていてくれて、何も言わなかったのね。きっと自分の中で鬱積したものがあったに違いないんだわ」
「それで、友子さんは彼を友達だと思うように努力したのかい?」
「したんだけど、結局できなかったわ。しようと思うと、彼の存在自体が、私にとっては苦しくなるだけだもの」
好きな人の存在が苦しくなるということは、これ以上辛いものではない。まだ男性を男として見ることがどういうことなのか分かる前だったこともあって、その思いがトラウマになってしまったようだ。だから友子は好きになった男性は、男としてしか見ることができなくなり、逆に男として見ることができなくなった男性を、友達としても見れないのだと思っている。
その気持ちは静雄には分からない。身体を重ねてしまった男性と別れる時は、友達に戻れないという女性の意見もよく聞くが、それも分からない。お互いに気持ちが一致するものがあったから身体を求めたのであって、嫌いになったわけではなく、彼氏、彼女として見ることができなくなっただけで、どうして友達に戻れないのかが不思議で仕方がない。
作品名:短編集109(過去作品 作家名:森本晃次