見えている事実と見えない真実
「まさかとは思うけど、部屋の中で具合が悪くなって倒れてでもいたら、大変なことですからね」
というのが理由だった。
もちろん、ママもそれを懸念してやってきたのであって、ただ、それはあくまでも最悪の場合だと考えていたが、マンションに到着してから、一つ一つを確認するうちに、どんどん不安が的中する方に向かっているようで、それを思うと、いても立ってもいられないというのが本心だったのだろう。
管理人も、半分はビビっていたが、それなりに開き直っているようだった。合鍵にて部屋の扉を開けると、玄関は別に普段と変わらぬ様子だった。
「どこからか、水道の流れる音がしませんか?」
と、さっきの水道メーターを見ていたから気付いたのかも知れないが、言われてみると水道の音がするというのを、ママも気が付いていた。
「こっちから聞こえるような」
とママがいうと、
「そちらは、バスルームになっています」
というので、ママはさらに嫌な予感が頭をよぎった。
いや、その時はよぎったなどという中途半端な言葉ではなく、確信に限りなく近いものであったことを分かっていた。
バスルームの近くまでくると、脱衣スペースから風呂場の間にあるアコーデオンカーテンが完全には閉まっていないことに気が付いた。そこから水道の音が聞こえてくるわけだが、湯気が出ていないところを見ると、流れているのはお湯ではないということだ。風呂を沸かしている途中ではないということだけは分かった。
さすがにこの時期なので、お湯であれば湯気が漏れてきても不思議はないという考えだが、さらにそれが、ママを不安にさせた。
もうママの中ではこの不安な気持ちは、ほぼ一つの結論を確証めいたものにしているような気がする。
管理人が少しだけ、前に進んだ。その様子を見ながら、ママもまるで管理人にしがみつぃている感覚で安心感を得ながら、前に進んだ。
次第に大きくなる水の音は、浴槽から漏れている音であることは分かった。ゆっくりと忍びよる管理人には、何が見えていたのだろうか?
いよいよアコーデオンカーテンを手に取って開けてみると、管理人の横顔が凍り付いているのが分かった。
ママも一緒に中を覗くと、高級マンションらしい少々広いバスルームに相応と言ってもいいくらいのバスタブが設置されている。そのバスタブに一人の女性が座り込んで、そのみだり側の腕は、浴槽に浸かっているが、それ以外の身体は浴槽に入っていない。左手だけを浴槽につけているだけの姿は、明らかに一つの状況を物語っていた。
もちろん、この状況と、今まで想像してきた、
「悪い予感」
を総合したからこそすぐに分かったというもので、こちらを向いて天を仰ぐような状況でのその顔には、完全な断末魔の様相を呈していた。
「きゃあ」
こういう時、悲鳴を上げるのが常識だと言わんばかりの悲鳴だった。
別に挙げる必要もない悲鳴だったが、この悲鳴を挙げたおかげで一瞬だが我を忘れて何をしていいのか分からない状態だった管理人の意識を、我に返らせることができたのだった。
「救急車だ」
と言った管理人の言葉に今度はママが冷静になった。
ママは以前、看護婦を目指していたことがあったので、すぐに落ち着くことができ、彼女の手首やその様子から、
「いえ、警察です」
と少しハスキーな声で言った。
「えっ?」
という管理人だったが。
「もう、ダメです。警察を呼んでください」
と促した。
考えてみれば、三日近くも連絡が取れない状態だったのだ。
この部屋でその時に何かがあったのだと考えるのが一番自然なのであれば、三日もこの状態であったのなら、万に一つも命があるはずなどない。それは火を見るよりも明らかであり、これで命があるとすれば、この状態になってから、数時間も経っていないということになるだろう。
状況から判断してそれはありえないと思った。管理人は、半分放心状態であったが、警察に一刻も早く来てほしいという意識も強いようで、慌ただしく電話で受け答えを行い、
「すぐに来るそうです」
と、ママに伝えた。
管理人もママも第一発見者という立場上、そこから動くこともできず、早く警察がきてくれるのを待つしかなかった。
ただ、ソワソワしているだけの管理人とは対照的に、ママはまわりになるべく触らないようにあたりを見渡した。
他の部屋にも入ってみたが、部屋の中は適度に片づけられていた。状況からみると、自殺に見受けられる。手首を切って浴槽につけることで、血が飛び散るのを防いだ。リストカットして自殺を試みる人にとっては常識と言える行動である。
ベランダに洗濯物が残されていることもなく、まるで自炊などしたことがないのかも知れないと思えるほど、台所も片付いていた。ただ、冷蔵庫には野菜や肉、魚といった食材があることから、彼女が自炊をしていることは間違いないと思われる。
そのわりに、三角コーナーにもゴミはなく、、ほとんどのゴミ箱も空だった。きっと、キレイに掃除をした後だということは、一目瞭然である。
彼女は指紋を残さないように、リビングにあったティッシュペーパーを手に巻き付けるようにして、冷蔵庫などを開けたので、きっと指紋は残っていないはずだ。指紋が残っているとすれば、入り口と入り口からバスルーム迄の間のはずで、それは管理人も同じことであるのは間違いのない事実であろう。
表で、パトカーのサイレンが聞こえた。普段であれば、パトカーのサイレンが鳴れば、ビクッとするものなのだろうが、この時はさほどビックリはしなかった。来るものだと最初から分かっていたからなのか、それとも、事件だと思った時から、耳の奥をパトカーの音が残像のように響いていたからなのか、どちらかは分からないが、違和感がなかったのだけは事実である。
ただ、管理人だけはそうもいかないようで、ビクッとしたが、すぐに天の助けが来たと思ったのか、急にソワソワとまるで貧乏ゆすりをしているかのようだった。
警察は重々しい状態で入ってきた。その頃には、近くの部屋から数人の人が顔を出していて、警察が部屋の中に入ると、覗き込むような人もいたが、きっとそんな人は普段は引きこもっているち決まっていると、管理人は思った。
管理人などという仕事をしていると、マンションの住民を見なくても、そのマンションが外見上どうなっているか、例えばちょっとした見えないところの汚れ方などを見ると、住民がどういう程度の人間なのか、大体想像ができるようだ。それはあくまでも段階的なことなので、範囲というものがある。ズバリの点数でなくとも、六十点から八十点の間というくらいの幅があることで大体当たるのだろう。それでも入っている確率が高ければ、人を見抜く力があるのだろうと思い込んでしまうところが、子供っぽいとでもいうのか、ただ、何も考えていない他の人よりはましなのかも知れない。
野次馬というのは、一番分かりやすいタイプであり、普段は徹底的に自分の姿を表に出そうとしない。それは表に出すということが怖いからなのか、それとも出さないことが正解だと思っているからなのか、自分でも分かっていないところが、野次馬根性を生み出すのだろう。
作品名:見えている事実と見えない真実 作家名:森本晃次