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短編集108(過去作品)

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 ファーストフーズを思わせるカフェが増えたが、どうにも落ち着きを感じない。まず、セルフサービスというのが気に入らない。持ってくることに違和感があるわけではないが、メニューを聞きに来てくれた時に交わす言葉にコミュニケーションを感じていたいのに、聞こえてくるのは、自分たちのグループで盛り上がっている声だけである。喫茶店らしいといえばらしいのだが、温かみを感じないのは一人でいる人が少ないからである。
 一人で本を読みながら佇んでいるのも喫茶店ならではの醍醐味である。見ている方も違和感がなく、自分の存在を喫茶店という空間の中で遊ばせているような余裕を感じるからである。
 その日は雨が降っていることもあって、車の出迎えが多かった。昼下がりというと電車に乗る人もあまりなく、本数も少ないので、晴れた日だったら駅に人が群がっているということもないはずなのに、やたらと人の多さが目立つ。それでも結構間隔をおいて立っている人を見かけるのは、湿気を帯びた寒さのため、あまり他の人を感じたくないからだと思うのも変かも知れない。
 車が横付けするたびに傘の花が一つずつなくなっていく。傘を畳む時に表情が見えないが、きっと安堵の表情になっているに違いない。それまで傘の花の中で立ちすくんでいる顔は、不安に苛まれているようにしか見えないだけに、安心した顔には暖かさが感じられるだろう。
 迎えに来る人もその顔を見たくて来ているに違いない。待っている方も、包み込むような笑顔が安心感を与えていることに気付いているように思える。表情というのはその時の気持ちを表しているに違いないのだが、それ以降の期待も含まれているはずである。出会えた二人の気持ちとこれからの気持ちの盛り上がりを考えると、無表情で見るしかないと考えるのは、自分にそんな相手がいないことを示しているようで、情けなくもなる、だが、いずれは自分にもという期待があるからこそ、喫茶店でのこの席が自分にとっての指定席になっているに違いない。
 男女ばかりではなく、子供を迎えにくる父親や母親もいるのだが、石橋の目には男女の光景しか写らない。男女以外の光景にはほのぼのしたイメージ以外浮かんでこないということだ。
 水しぶきが上がる道路わきに、密かに店を開いているのが見えたが、明かりが暗いせいか、こじんまりとして見えている。店先に犬を飼っているが、人が歩くのを見て、吠えもしない。
――かなりの歳なんだろうな――
 犬の寿命といえば、せいぜい十五年くらい、
――十五年前の自分って、どんな感じだったんだろう――
 中学から、高校に入学する頃が思い出された。
 あの頃はまだ純情だった。友達がたくさんいたわけではないが、
「お前は、いろいろな団体に所属しているみたいで、いつもたくさんの人がまわりにいるように見えるんだ」
 と言われたことがあった。しかし、それは思い違いで、
――たくさんまわりにいるように見えるが、実は誰ともそれほど親しいというわけではない――
 というのが正直なところだ。
 そういえば、大学に入って講義を受けに行った時、一番前の席にはいつも同じ連中がいた。彼らはどの講義でも一番前に陣取って、必死にメモを取っているが、気持ちは分からなくもない。自分にはできないことだと分かっているが、それはどこか高校時代の自分と照らし合わせてしまっている自分を感じるからである。
 高校時代は物静かで、他の人のことなど気にも留めないような雰囲気であったが、実際には、その時ほどまわりの人間を意識していた時期はないだろう。
――俺は他の連中とは違うんだ――
 と思い、絶えず人との違いを探していたものだった。心の中で、
――これは悪いことなんだ――
 と思いながらも、他の人がやっていないことであれば、
――これが俺の個性なんだ――
 とさえ思っていたほどだ。
 十五年経った今でもあまり変わっていない。むしろ毎日が同じようなせ生活の繰り返し、個性がどこにあるのかいつも考えていると言っても過言ではない。だが、慣れというのは恐ろしいもの、普段と同じ生活が、いつしか無関心を装う自分に近づいていることに気付いていても、それを正そうという気持ちにもなれない。きっと、成長しようという感覚が麻痺してしまっているに違いない。
 大学に入ってから初めて喫茶店に一人で入った。
 高校の頃までは、苦くてコーヒーを飲めなかった口である。
「コーヒーくらい飲めないとな」
 と言われるのが恥ずかしいのと、コーヒーが大人の飲み物だという意識が強いことから、先輩が連れて行ってくれた喫茶店では、砂糖も入れずに背伸びしてブラックで飲んだものだった。
 さすがに砂糖は入れるようになったが、基本は今も変わらず香りを楽しみたいという思いが一番で、ミルクを入れないのは、コーヒー独特のうまみを含んで見える色が好きだからである。
 苦味が大人の味だというのは、迷信の類には違いないが、表面に写っているものが、本当の自分の顔を写し出しているのだという人もいて、いつもかき混ぜた後のカップを見つめていた。
「カチャッ」
 スプーンを置く時の乾いた金属音が陶器に響いている。音が響くと、その瞬間、渦になっていた表面に、自分の顔が写っているように感じる。
 しかし、写っているはずの顔は逆光になって、表情がハッキリとしない。それは分かっていたはずなのに、ハッキリとしないだけに不安になってくるのである。
――黒い色は光を反射するというが、まさしくそうだな――
 すべてのものは光の恩恵を受けることで形として見ることができるが、光を吸収してしまうものであれば、光の恩恵を受けることはない。
 光を吸収するということは熱も吸収することで、きっと感覚が麻痺するほど冷たいに違いない。
 感覚は麻痺する。形を形として認識できないのであれば、自分自身が認識できないのと同じである。認識できない自分の身体をどんなに意識しようとも、そこは冷徹な世界でしかありえないのだ。
 そんな世界を創造した小説を読んだことがある。
 氷のように真っ白な世界ではなく、風も吹かなければもちろん空気もない。そこに佇んでいるとしたら、自分はどんな形のものなのかを想像しているものだったのだ。
 形があって、形がない。形がなくて形がある。
 まるで禅問答のようだが、空気がなくとも存在しているはずの空間に、自分がいると過程するのは実に難しいことだが、コーヒーをかき混ぜているカップの中を見ていると、何となく想像できてくるから不思議だった。
 渦の中に吸い込まれると、その向こうには違う世界が広がっている。
 暗黒宇宙がマイナス宇宙だという学者がいるようだが、表があれば裏もある。裏がどんな世界か知らないが、裏の裏があるのかも知れないと感じると、自分の両端に鏡を置いて、無数に写っている自分の姿を想像してしまう。水溜りに落ちて放射状に広がる輪を見ていると、コーヒーの渦、はたまた、マイナス宇宙の果てしなさまでも思い出してしまいそうだった。
 たくさんの車がロータリーに止まっては、人を乗せて帰っていく。羨ましさを感じたのは、いつも自分が一人で歩いているからではない。迎えに来るような相手がいないことだった。
作品名:短編集108(過去作品) 作家名:森本晃次