短編集108(過去作品)
柑橘系の香り
柑橘系の香り
雨が降っていて、ジメジメした空気の中で、足元にネオンサインが揺れていた。
水の溜まった場所があちこちに点在していて、歩きながら避けているが、前から来る車は容赦なく水飛沫を巻き上げていく。いちいち文句を言うわけにもいかず、歩行者はなるべく濡れないようにと、歩道の端の方に偏ったようにして歩いている。
傘の花を咲かせて歩道の端の方を狭くなって歩くのも限界がある。人は前からだって歩いてくる。後ろからも迫ってくる。歩きにくいったらない。だから雨の日は嫌いだった。
風も少し吹いてきていて、傘を差している手に力が入る。吹き飛ばされないようにしなければならず、人との傘が触れないように努力するのも限界がある。ところどころで傘が当たっているのだろう。歩きにくそうにしている人を多く見かけた。
駅までやってくると、迎待ちの人が改札口の前で数人が雨宿りしている。それでも次々にやってくる車に迎えを見つけては、傘を差して車まで駆けていく姿が見られる。
子供を迎えに来る親が一番多いが、中には彼女を迎えに来る男もいるようだ。携帯電話でニコニコしながら話している女の子もいるが、楽しそうな表情をしているのが、何となく恨めしく思えてくる。
石橋哲也は彼女もいない寂しい生活をずっと続けていた。年齢的には三十歳を超えるまで、彼女らしき女性がいたのは学生時代の短い時期だけだった。最初、彼女ができた時有頂天になった気持ちは今でも忘れられない。
――忘れられないほど彼女に没頭してしまったことが別れる原因になったんだったな――
彼女からはしつこい男性だと思われていたようだ。本人としてはそこまで思っていなかったのに、相手が勝手にそう思い込んでいたと付き合っている時は思っていた。だから彼女から、
「あなたと一緒にいると私が重荷を感じるの。男性を付き合うのにここまで重荷を感じないといけないのなら、私はあなたと別れたい」
と言われた。
「そんなつもりはないんだ。これからじゃないか」
と説得しているつもりだが、もう彼女は聞く耳持たなかった。
「あなたからそんな答えが返ってくるとは思わなかったわ。もう少し潔いと思っていました。明日からは私はあなたを他人としか思えませんから、そのつもりでいてくださいね」
と言われて、後は取り付くしまもなかった。
――そんなにまで言わなくてもいいのに――
それは今でも思っている。しかし、彼女もそれなりに考えての結論だったはずだ。
「女というのはギリギリまで我慢するものだから、きっと、口に出したら最後、それは自分の中で結論をつけているんだよ」
という話を聞いたことがあったが、まさしくそのとおりだ。その話を聞いた時はピンと来なかったし、別れを言われた時にその話も思い出すこともなかったのは、それだけ自分の中で彼女が大きくなりすぎていたのだろう。
彼女なしの生活など考えられないほどだった。
想像力が豊かといえばそれまでだが、一緒にいない時でも絶えず彼女のことを考え、自分の中で勝手に想像が膨らんでいく。膨らんだ想像はきっと彼女の中での想像に比べればはるかに大きなものだったことだろう。女性というのは想像力が豊かだというが、彼女がいる時の男性の想像力はそれに勝るとも劣らぬものだと思っていた。実は、それは石橋だけにいえることだったのではないだろうか、
その頃から他の男性を意識し始めた。
――いったい皆何を考えているんだろう――
漠然としてではあるが、そういえば、男性の友達は少なくはないが、真剣に話ができる親友がいないのではないかと感じたのもその頃だった。
考えてみれば一人でいて、孤独感を感じることはあるが、それほど一人でいることに違和感を感じる方ではない。そのくせ、無性に一人でいることが寂しく感じることがあるが、それが一般的な孤独感と同じかどうかと言われると疑問である。それだけ自分の中で孤独感という意識が曖昧なものだったのだ。
そういえば、彼女と知り合ったのもその日のような雨の日ではなかったか。同じ大学の女の子だという意識はあった。同じ講義がいくつかあって、彼女は、一人で真面目に聞いている時もあれば、友達と話しながら、一見不真面目にも見える講義態度のこともあった。
――どっちが本当の彼女なのだろう――
という意味での興味が一番だったに違いない。
同じクラスでも話をしたことのある人は限られているが、大学というところは独特の雰囲気があり、話しかけやすい人にはこれほど開放的なところはないが、一度話しかける機会を逃してしまうと、開放的に感じる空間だけに、相手がこちらを意識してくれないと、二度と話しかけられない雰囲気があり、遠くに見えてしまうのだった。
夏よりも、どちらかというと冬の方が好きな石橋だった。
冬を感じてくると街もせわしなくなっていて、やれクリスマスだ、年末だと賑やかなものである。人も多くなってきて、そんな中を歩くのは嫌いではなかった石橋は、そこが以前と一番変わったところではないかと思えていた。
石橋がその時安らぎを感じていたのは、馴染みの喫茶店を持っていることだった。喫茶店に行く時は、ほとんど一人の時はなく、必ず誰かいるのだが、それぞれに指定席を持った常連さんばかりなので、迷うことなく座る席は決まっていた。
モーニングの時間が多く、寒い時期などは、窓が湿気で曇ってしまうこともあったが、室内に漂っているコーヒーの香ばしい香りに酔ってしまいそうになる。手を合わせて必死に寒さを耐えている姿も、風の強さも、見えているほどひどくないように思えてくるから不思議だ。
その日は昼下がりだったので、少しは気温が高かったかも知れない。しかし、朝から降り続く雨に気分も冴えないせいもあってか、底冷えしているように感じていた。
喫茶店の窓から駅の改札口が見えるが、人の往来は見ている分には飽きが来ない。すぐに飽きるものと、あまり飽きないものの差が激しい石橋は、その境目がどこにあるのかも分からずに、
――その時になってみないと、一概には言えないな――
と感じていた。
今でも人の往来を見ていると飽きない性格ではある。だが、学生時代のように賑やかなところに出るのは苦手だった。電車やバスに乗っていても、空いている席があれば座りたいと思うし、楽をしたいと感じる。まわりの目がなければきっと空いている席があれば走っていってでも座るに違いない。
ずっと立っていると苦しさを感じてくる。足がだるくなるよりも、呼吸困難に陥る方が深刻で、ずっと立っていると身体の力が足に集中しているはずなのに、どこに集中しているのか分からないような感覚に陥ってしまう。だから立っていることに嫌悪感があるのだ。
なるべくならゆっくりしていたいという気持ちから、馴染みとなる喫茶店を探していた。偶然見つけたのだが、今でも幸運だったと思う。最近では喫茶店も減っていて大きな駅のまわりでも昔ながらの喫茶店は少なくなってきた。
作品名:短編集108(過去作品) 作家名:森本晃次