予知夢の正体
自分の姿は確認できるのだが、全部が同じ方向を向いているわけではなく、横を向いている自分、正面で六き合っている自分、そして、さらに後ろを向いている自分、すべて同じ大きさではなく、小さい自分もいるのが分かる。一番多くな自分であっても、絶対に自分よりも大きな人物はいなかった。
そこに写っているのは確かに自分なのだが、自分という感覚はおろか、人間としての感覚もないような冷たさしか感じなかった。
そこまで思えてくると、自分がどこにいるのかが分かってきた。
「ああ、これは夢なんだ」
と最初に感じた瞬間だった。
夢を見ている自分を最初に感じる時というのは、たいていは意識があるものだ、この日おmそうだったが、それはきっと自分が考えていることと夢の内容が一致したという、いわゆる「想像」ができるからであろう。しかし、夢だと最後まで意識できなかったものは、きっと自分の中での「創造」なのではないだろうか。
実際にどっちの「そうぞう」が多いのかというのは、分かるはずはない、なぜならば、「想像」というものは夢の中で理解できるものだが、「創造」は分かっていないものなのだ。しかも今回のように、一度の睡眠の中で何度も違うシチュエーションを夢として見ると、創造は複数のものである。だから分からないのではないだろうか。
今回の最初の夢が何か分かってくると、小学生の頃に行った、夏祭りを思い出した。
そう、今回の夢は、自分にまわりにたくさんの鏡が配置してあり、四方八方がすべて鏡であることから、無限に自分が写し出されたのだ。
「同じ方向ではない」
という事実が玲子をその「想像」の正体を理解させた。
まわりがすべて影だということを理解させると、今度は玲子は自分の頭を働かせてみた。一つの疑問が頭の中にあり、それを確かめたくて仕方がなかった。
玲子は自分の足元を見た。
「そこには鏡などないだろう」
という思いがあったからだ。
果たして足元を見ると、そこは、舗装もされていない土の地面だった。
「やっぱり:
と思ったが、その瞬間、「想像」という一つの壁を越えたかのようだった。
ただ、考えてみると、足元に鏡がなかったということは、果たしてどこまで信憑性があるだろうか。まわりの鏡に関しては分かっていたことであり、足元がどうかというのは、自分で今まで確かめたことがなかったのを思い出して、思わず足元を見たというのが本音だった。
だから、足元に関しては、まったく信憑性のないもので、これこそ、「創造」である。つまり「想像」と「創造」の違いは、かつて自分に経験があったかどうかということであり、信憑性という意味においては、
「完璧なことか、皆無なことか」
という、一種の、
「オール・オア・ナッシング」
だと言っていいだろう。
玲子は、その次にやってきた「想像」の世界は、やはり最初と同じように、真っ暗な世界にスポットライトが当たるもので、その世界では、まわりに何があるのかまったく分からなかった。
むしろ、何もないと言ってもいいのではないかと思うその場面は、玲子を少し恐怖に陥れるものであった。
最初のミラールームの恐怖は確かに自分でも経験したし、見たことがあるとハッキリ言えるものであったが、第二幕の世界は、経験したことがあるわけではないが、初めてではないという感覚だった。
「デジャブ現象」
と言ってもいいこの状態を感じさせるのは、やはり夢だったからではないだろうか。
今見ているのも夢であり、初めてではなかった前に見たのも、同じシチュエーションの夢だったと思う感覚、しかもその時も同じように、
「初めてではない」
と感じたような気がした。
つまり、玲子はこの夢を果たして何度、繰り返して見たことであろうか。
これをそれこそ、
「夢のスパイラル」
だとすれば、「創造」というものは、スパイラルとして、何度も見たことになるのではないだろうか。
夢だったので覚えていななかったのだが、見た瞬間、記憶の封印が解けたということであり、さらに今見ている夢もまた、記憶に封印されるんだろう。それが以前に見た夢の中に封印されてしまうのか、重複されることなく別々に封印されてしまうものなのかまでは分からなかった。
玲子は、今度の「創造」がどういうものか分かってくると、そこから一歩も動けなくなり、金縛りにでも遭ったかのように思えた。
金縛りは自分の身体の奥にある緊張を引っ張る出して、恐ろしさが極限に達した時、
「動いてはいけない」
という思いが強ければ強いほど、それが金縛りであるということを意識させるのであった。
玲子がどうしてこの場面にやってきたのかということは、分かる気がした。
「きっとさっき、足元を確かめてしまったからだわ」
足元に鏡がないということを再認識したことで、別の世界が開けてきた。
この世界は、足元を嫌というほど意識させるものであり、足元を見るのがとにかく怖いということを意識させるものであった。
その場所というのは、断崖絶壁の場所であり、自分はそのてっぺんにいるのだ。しかも真っ暗なので、足元がどれほど動けるスペースがあるかなどということすら分かっていない。
一歩でも動けば奈落の底なのか、それとも、少しは動けるスペースがあるのかということをである。
こういう場合というのは、最悪な場面しか考えてはいけないだろう。少しでも楽天的に考えてしまって、痺れを切らして動いてしまうと、あっという間に奈落の底だ。そうなると、
「夢なら早く覚めてほしい」
という神頼みの類しかないのは分かり切っていることだった。
だからといって、
「夢なんだから」
ということで軽率な行動をできないのも事実だった。
これこそが、
「ジレンマであり、自分の発想と想像の中の矛盾である」
と言えるのではないだろうか。
少しずつ考えていくと、そのうちに目が慣れてきて、その場所が断崖絶壁ではあるが、自分がまったく身動きできない場所ではないことに気付いてきた。
その場所は足元はしっかりとはしていない。少しでも動けばグラグラしているという、むしろ安定感のない場所であった。
だが、それだけに一歩も動けないわけではないことはすぐに分かった。その場所は吊り橋であり、そちらにでも進もうと思えば進めるのだ。
「でもどっちに進めばいいのか?」
と余計なことを考えた。
どちらかが出口なのだろうが、間違えて渡ってしまうと、先に進んでしまい、自分の世界である者との世界に戻ろうとしても、橋は渡った瞬間、綱が切れて、他の底に落ちてしまうという錯覚を覚えた。
しかし、この錯覚は夢であるがゆえに感じるもので、夢に逆らおうとするのは、危険であるということを示しているような気がした。
「夢が現実にまったく影響を及ぼさないなどという考えがどこにあるというのだろうか?」
と玲子は考えた。
夢と見るということは、
「潜在意識が見せるもの」
と言われているが、その潜在意識というものは、意識という言葉を使ってはいるが、実際には無意識のうちのいわゆる本能のようなものではないかと思っている。