予知夢の正体
教授室は、扉を開けた部屋は奥に教授の机があり、手前には応接セットが置かれている。その奥には書庫のようなものがあり、狭いところであるが、隠れるにはちょうどいい場所であった。
電気を消して、書庫に忍んでいると、まだ教授たちが入ってくるまでのわずかな時間であったが、自分の胸の鼓動が聞こえてくるようであった、二人の関係がどうのというよりも前に、自分が出ることもできずに、ここで二人の話を聴かなければいけない立場になってしまい、その内容がもしも悲惨であったとすれば、女が帰った後、自分がどうすればいいのかを考えられないことが怖かった。
普段から、何かの行動をする時は、その行動が引き起こす結果について、いつも考えているのだが、その日はまったく考えられなかった。
この場に自分の身を置かなければいけなくなったことで、教授とその女の二人に、少なくも恨みを感じた。
――なんで、この私が――
という思いである。
こんな状況はハッキリと言って、プライドが許すものではない。自分の胸の鼓動の激しさと、額から滲んでくる汗とが、自分のプライドをズタズタにしているのではないかと思うと、実に強い憤りを感じるのだった。
怪しい女
額から溢れてくる汗は、明らかに湿気を帯びた部屋の中で、密室を感じながら、風もない空気の中で自分の息が湿気を帯びているところから来ているという思いを抱かせた。
教授の部屋に今まで何度も一人で入ったことがあったが、その都度、教授に断りを入れたわけではない。
「ああ、彼女が来て、掃除をしてくれたんだな」
と思わせるだけで十分だった。
それが、自分を健気な少女として作り上げ、妄想の中での自分が、創造されていくのだった。
教授の部屋に入ってからというもの、どこからか聞こえてくる時計の音、今まで気付かなかったが、どこかにアナログの時計があるようだった。
「骨董品に興味があると言っていた教授なので、アナログ時計くらいあっても、別に不思議じゃないな」
と感じたが、どこにあるのか分からないだけに、その音が大きくなったり小さくなったりしているのが気になっていた。
後から思えば、それが胸の鼓動と連動していたからであり、それだけ緊張がピークに達しようとしていた。息苦しさを感じていたはずなのに、息苦しく感じなかったのは、ある種の感覚がマヒしていたからではないだろうか。
果たして二人はなかなか入ってこないと思って、扉に神経を集中させていると、革靴と、女性はヒールでも履いているのか、
「カツカツ」
という乾いた音が聞こえてきた。
その音が乾いていただけに、急に自分に喉の渇きが襲ってくることに気が付いた。
「きっと、声など出ないに違いない」
と思うほど、カラカラに乾いていた。
そんなことはここに潜んでから、湿気を帯びた空気の中で、額から汗が流れている状況から無意識のうちに分かっていたことだろう。
やっと、自分の置かれている立場に気が付いたとでもいうべきか、まっずぐに前を見て、扉のノブに集中していた。
「ガチャガチャ」
というカギが挟まる音が聞こえた。
その時にはすでに、先ほどの乾いた靴音は消えていた。
「やっぱり、あの二人だったんだわ」
と思うと、玲子はいよいよ緊張の高まりが最高潮だった。
カギが回って、中に二人が入ってくる。
玲子が最初に感じたのは、
――私の体温で二人が私という存在に気付くんじゃないかしら?
というものだった。
それくらい身体が熱くなっていたが、それよりも、心臓の鼓動の方がどうしようもないくらいになっていた。気付くとすれば、心臓の鼓動のはずなのに、そんな単純なことに気付かないというのも、おかしなものであった。
「バタン」
という音が聞こえた。これは扉が閉まって、オートロックがかかった音だった。その音と同時くらいに教授のいる応接室の電気がついて、明るい光が真っ暗な書斎コーナーに光が漏れてきていた。
「どうぞ、お座りください」
という教授の声が聞こえて、
「どうも」
という女性の声が聞こえた。
――あれ?
と玲子は感じた。
先ほどの窓から見た、まるで恋人のような雰囲気の二人ではないような気がした。二人はどちらかというと、他人行儀な会話で、応接室の方から胸の鼓動が聞こえてきた。
――これは教授の胸の鼓動だわ――
何度となく、肌を合わせた教授の胸の鼓動は、玲子には分かるつもりだった。
だが、この時の教授の胸の鼓動は、女性を目の前にして、淫靡な状況を想像しての胸の高鳴りとは若干違っていた。
どこか覚えのようなものがあるように感じたのだが、その怯えがどこから来るものなのかまったく分からない。
――どういうことなのかしら?
と玲子は思って、少し向こうの部屋に忍び足で近づいていき、二人を垣間見た。
教授は自分に向かって背中を向けて座っている。
相手の女がこちらを向いているので、どんな女なのか、顔を見ることができた。その女性は化粧のうまい、学生とは思えない落ち着いた雰囲気を醸し出した女性であり、まるで、バーかキャバレーでホステスをしているような雰囲気だった。
まだ空調が効いていなかったので、彼女の化粧の匂いが強烈に鼻腔をついた。
――何なの、この臭いは?
と、鼻の感覚がなくなってしまうのではないかと思うほどのきつい臭いに、玲子は驚愕とともに、吐き気スラ覚えていた。
彼女はそんな玲子の存在に気付いていないかのように、教授を真剣な目つきで見つめている。
教授は向こうを向いているが、明らかに貧乏ゆすりをしていて、その場にいるだけで呼吸困難を引き起こしているのが分かるくらいだった。
本当であれば、この場から逃げ出したいような衝動に駆られているのだろうが、それを玲子は計り知ることができなかった。
ただ、何か様子がおかしいことは分かっていたのだが、目の前に鎮座しているこの女性の真剣な目つきに圧倒されていたというのが本音であろう。
次第に部屋の明かりにも目が慣れてきて、その女性がテーブルの上に、何か一枚の紙を置いているのが分かった。
「何だ、これは?」
と教授が、聞いた。
「見て分からないの? 婚姻届けよ」
と女は言った。
婚姻届けくらい、見ただけですぐに分かるのは当たり前のことなので、教授が言った、
「何だ、これは」
というのは、婚姻届けそのものに対してのことではなく、どうしてそこに婚姻届けがあるのかということを聞いたのだろう。
つまり、教授はこんなところで、婚姻届けが出てくるということを想像していなかったということになる。
だが、その割に、落ち着こうとしている教授の素振りを見ていると、最初からまったく想像していなかったという考えはおかしな気がした。
想像していたから、婚姻届けを見た時に、さほどの驚愕もなく、ただ、気持ちを落ち着かせようという意識が働いているとしか思えなかったのだ。
――私って、こんなにも知らない女性とのシチュエーションについて、想像できるなんて思ってもみなかったわ――
と感じていた。