短編集107(過去作品)
意識しない結婚
意識しない結婚
「のんびりと温泉に浸かって、空を見ているのもいいものだな」
山田達也は、露天風呂から見える満天の星空を見ながら一人ごちた。流れ星でも探したくなるような空を見ていると、吸い込まれそうな気分になってくる。
達也の住んでいるマンションから、近くのコンビニまで出かける時、いつも空を見上げていた。もちろん、満天の星が見えるわけでもないのだが、空を見上げるのが好きなのだ。
空に対する執着だけではない。歩いていて、気になったものは足を止めてでも見るくせがついてしまった。商売柄と言ってしまえばそれまでだが、高校の頃までとはまったく違っていた。
高校の頃までの達也は、いつも考えごとをしていた。考え事をしているとまわりが見えなくなるタイプなので、風景を気にするなど、考えられないことだった。だが、大学に入学して入ったサークルが創作サークルで、風景などを気にしている人がまわりに多くなってくると、自分も気にするようになった。
中学の頃まで、芸術と呼ばれるものは毛嫌いしていた。センスがないことは自分でも分かっていたし、現実的に数学などのように答えがキチッと決まっているものにしか興味を示さなかった。
創作サークルに入部したきっかけも不純なものだった。同じクラスに気になる女の子がいて、その娘が入ったサークルに自分もつられるように入ってしまったという、まるで中学生の頃のような動機だった。
それでもモノを作り出すことは嫌いではなかった。センスがないので、毛嫌いしていたが、本当は作る楽しみを密かに味わいたいと心の底で思っていたに違いない。それから今に至るまで自分の中で何かが変わったきっかけの一番大きなものは、創作サークルとの出会いだったことは言うまでもなかった。
考え事をしながら歩くくせは今も残っている。実際に追い詰められたりすると、考えないわけにはいかない。考えすぎる性格がそんなに簡単に治るはずもなく、考え込んでしまうと袋小路に入り込んでしまう。
――気分転換が必要だ――
真剣にそう考えるようになった。気分転換しないと、行き詰ってしまうのは目に見えている。
達也はサラリーマンではない。創作サークルから自分の才能を見出したというべきか、今では作家としてデビューしていた。
といっても、小さな出版社に少しの原稿を書くだけなのだが、それでも本人は満足していた。家は旧家で金銭的にはそれほど困らない。だからこそやっていけるのだ。
さすがに作家になるといえば、最初親の反対で厳しかった。それでも根気よく説得し、渋々であるが親も納得してくれた。その親も今は田舎で静かに暮らしている。
――親父も年を取ったな――
たまに実家に帰って見かける父親に昔の威厳はなかった。
――あれほど厳しかったのに――
都会で少しだけサラリーマンをやって、田舎に戻ってきた経緯があると聞いたが、都会の生活がそれほど厳しかったのかと、子供心に思った達也である。
厳しかった父親の中に威厳を感じていたのは、都会に出て生活をした経験があるという意識があったからである。田舎しか知らない達也にとって、都会がどんなところなのか興味もあるが、それよりも恐ろしいところだという意識の方が強い。
威厳を感じる父親が、すぐに田舎に戻ってきたという話を聞くのだから当然と言えば当然で、田舎での生活において、それだけ一家の主人という立場が絶対的なものであることを示している。
高校まで田舎で過ごしていたが、中学を卒業するまで、都会に出ようなどという気持ちになったことはなかった。それなのに、高校になると、急に都会に出てみたくなったのは、思春期特有の冒険心のようなものだと、達也は勝手に理解していた。身体の成長が田舎での生活だけでは抑えられなくなったのかも知れない。
そんな気分になってしまうことも達也は予感していた。小学生の頃からまわりの人たちに変化はない。同じ顔ばかり見ていては、退屈してしまうのだろう。
「俺、都会の大学に進学したいんだ」
父親がどんな顔をするか、怖いと思う反面、興味があった。
「ああ、お前の好きにすればいいさ」
表情にほとんど変化がなく、拍子抜けした答えが返ってきた。
――これが威厳を感じていた父親なのか――
という失望もあったが、それよりも、
――こんな表情ができる人だったんだ――
と思えるほど穏やかな表情だった。
――穏やかな中にこそ、余裕が感じられるんだ――
人間の表情に深みや厚みを感じた最初がいつかと聞かれれば、迷うことなく、この時だったと答えられる。
作家として仕事ができるようになっても、それほど収入は多くなく、アルバイトをしないと生活ができないでいた。
コンビニの販売員、短期派遣社員としての仕事も少ししていたが、体調を壊した時期もあり、それほど無理もできなくなった。
半分開き直ったのがよかったかも知れない。作品に重みが出てきたのか、次第に収入も増えてきた。すべてが昇り上司で、有頂天になった時期もあったくらいだ。
有頂天になれば、どこかで落ちてしまうのも世の習い、厳しい現実の壁を思い知らされたこともあった。自分の作品に対する評価も、高い評価をしてくれる人が増えれば増えるほど、酷評する人も増えてきた。それだけ読んでくれる人が増えたということなのだろうが、有頂天になっている達也には、少し厳しすぎた。
――急上昇したり、急降下したり、精神的にもきついわけだ――
覚悟がなかったわけではないが、ここまで激しいとは思わなかった。一度は簡単に開き直れたが、二度目はさすがにきつかった。一年くらいは落ち込んでいたかも知れない。
――おれに文筆業は似合わないんだ――
と真剣に考えたりもした。
しかし、モノを作ることへの執着が最後は自分を開き直らせてくれた。落ち込んでいる間に、何度も旅行を繰り返した。現実逃避だったのかも知れないが、その度に、
――どこに行っても同じなんだ――
というのを思い知らされるだけだった。結局戻るところは今の立場しかないということに気付いただけでも、旅行に出た価値はあったに違いない。
旅先で見た満天の星空が忘れられず、今でも空を見上げるくせがついてしまったというわけだが、最近では旅先で見た星空よりも、家の近くで見る夜空の方に興味を持っていた。近くのコンビニに買い物に出かけた時に見る夜空である。
執筆に集中していると、一日中部屋に篭って、どこにも出かけないことが多い。執筆していて集中できる時間はせいぜい二時間程度だが、二時間集中して書くと、一時間は休憩する。テレビをつけたり、音楽を聴いたりであるが、テレビがついていてもつけているだけで、集中して見ているわけではない。特に集中力は夕方にかけての時間が一番削がれてしまう時間帯であった。
作品名:短編集107(過去作品) 作家名:森本晃次