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短編集107(過去作品)

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 と感じ、それが自分にとって大切な人だったことに気付いたからだ。もし、彼女に似ていると思わなくとも、固まってしまったかも知れないと感じた。
 その日、営業の仕事が思ったよりも早く済んだので、昼過ぎというよりも夕方に近い時間帯であったが、昼食を摂りに入った喫茶店だった。
 営業のコースは曜日によって決めている。その時は、中途半端な距離の出先だったので、普段であれば昼食を摂らない。移動中に昼食時間を迎えるが、人の多いのは苦手な達彦は、正午から午後一時という普通の会社の昼休みに飲食店に入ることを嫌った。
――いつ頃から嫌になったんだろう――
 大学時代までは、人が多い方が活気があっていいと思っていた。それが急に人込みが苦手になるのだから、きっかけがあったはずだ。
 今から思えば、彼女が自分の前からいなくなってからだったように思う。あくまで憶測なのでハッキリとしないが、
――その時にしかきっかけになるようなことはなかったな――
 と思うからで、逆にいえば、きっかけがなければ、本当に変わることがないのかという疑問も残ってくる。
――無理にきっかけを作ろうとするから、自分の考えを見誤ってしまうのではないか――
 と考えることもある。
 喫茶店に入った時間には、何とかランチタイムの時間に間に合った。
「まだ大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫ですよ。もう少しで終わるところでしたけどね」
 と店の女の子に言われた。
――はにかむと可愛いだろうな――
 幼さの残る彼女は学生に違いない。派手ではないが、賑やかな中にいたとしてもまったく浮いてくるように感じない。きっと普通に溶け込んでいる中でも。どこか目立った雰囲気を醸し出しているようで、話をしているだけで元気を与えてくれそうに思えてならなかった。
 初めての店では、ついつい店の女の子を意識してしまう。馴染みの喫茶店は、いくつあってもいいと思っている達彦だったが、それを決めるのは店の女の子の雰囲気がいいか悪いかで最初の気持ちが決まる。
――この店は合格だな――
 何が合格なのか、自分で品定めができるほど立派な人間ではないと思っているが、一人気持ちの中で納得するだけなら、誰に迷惑を掛けるわけでもなく、問題などあろうはずもない。
 ランチもおいしかった。日替わりということで他の曜日にも来てみたいという気にさせてくれる。
 店でスポーツ新聞を読みながらランチを食べている人を多く見かける。どこにでもある喫茶店の風景なのだが、一見常連さんがどれほどいるのか、分かりかねるところがあった。
 今までに他の喫茶店でも常連になったところがあったが、その店はすぐに常連が多い店だと分かった。こじんまりとしていて、常連同士の会話に花が咲いていたからであるが、今から思えば会話がなくとも、常連が多い店だということは分かったような気がする。
 この店はそれほどこじんまりとした雰囲気でもなく、客はほとんどがサラリーマン、テーブルの席にそれぞれ腰掛けていて、四つある椅子を一人で占領している。もちろん当然のことなのだが、それでは会話が成立するはずもなく、少なくともその時にいた人のほとんどは、店にちょくちょく来る人であっても、決して常連さんと呼べる人たちではないだろう。
 常連さんと、常連とは違う。常連というのは、会話がなくとも店に頻繁に顔を出す人のことを達彦はそう呼んでいる。常連さんになるには、他の常連さんや店の人との会話が必要なのだ。
 あくまでも達彦個人の考えなので押し付けるわけには行かないが、常連さんは馴染みの客なのである。
 店の雰囲気に溶け込み、その場の雰囲気を楽しむだけでも常連さんと言ってもいいだろう。唯一会話がなくとも常連さんと認めてもいいと思う人だ。今まででそんな雰囲気を持った人に出会ったことは一度だけあったように思った。
 ランチを食べ終わってコーヒーを飲んでいると、入ってきた女性がその雰囲気を持っていた。それが佐和子だったのだ。
 かつて感じた会話のない常連さん。その人を感じたのは、今から二年半ほど前だっただろうか。
 彼女を失って数ヶ月抜け殻のようだった達彦は、自分の中から自然に彼女の存在が消えていくことに気付いていた。
 違和感はなかった。いなくなった時は何をどうしていいか分からなかった時期があったことも今は昔、そんな気分になっていた時だった。
――傷つかなかっただけでもいいか――
 放心状態でショックはあったが、なぜか傷ついた気分はなかった。それだけ気配が消えるというよりも身体の中から抜けていく。抜けていく感覚が分かっていて、心地よさを感じたほどだ。
 感じるはずのない心地よさだった。もう二度と同じ心地よさを感じることはないだろう。まったく同じシチュエーションが訪れたとしても、そこには違う感覚が漂っているに違いない。まったく根拠のないことだが、達彦にはそう思えた。
 根拠のないことほど達彦の中に、確信めいたものが残っている。根拠があると頭の中で解決しようとするが、根拠がないと、身体全体で感じようとする。その違いが達彦の中にあったのだ。
「こんにちは、ご一緒してもいいですか?」
 店で見かけて何度目かで、やっと声を掛けた。元々恥ずかしがり屋でしかも学生時代ならまだしも、社会人になって女性に大衆の前で声を掛けるなど、後から考えてもその時の心境を思い計ることはできない。
「いいですよ」
 佐和子は、テーブルに座って窓から表を見ていた。ボンヤリと見ている表情には哀愁のようなものを感じたが、話しかける気分になったのだから、その時、きっと表情には余裕のようなものを感じたに違いない。
 振り返ってから達彦を見上げるその表情は、目が潤んでいた。最初に目に視線が行ったのである。
 だが、次の瞬間に顔全体を確認した時、達彦は愕然とした。それは、数ヶ月前に別れた彼女にあまりにも似ていたからである。
 思わず彼女の名前を呼ぼうとしたその瞬間だった。
――あれ? 何という名前だったかな――
 一瞬、記憶喪失のようになってしまった。思い出そうとすればするほど彼女の名前が出てこない。それは今でも一緒だった。何も考えていない時は頭の中に名前が浮かんでいるように思う。思い出して、心の中であっても彼女の名前を呼ぼうとすると、その瞬間に記憶が飛んでしまうのだ。だから、まったく彼女の名前を思い出せないのは、その時からずっとのことである。
 佐和子はすぐに自分の名前を名乗った。だからこそ達彦の数ヶ月前までの記憶は佐和子によって塗り替えられたような気がした。それほど佐和子は彼女に似ていたのである。
 知り合ってからずっと佐和子を見続けてきたが、話の展開を読むことができない時でも表情の変化を想像することができた。寸分の狂いもなく想像できることに気持ち悪さもあったが、それだけ佐和子に対する思い入れが大きいことを示していた。
――見つめられた最初の瞬間から、佐和子の虜になったのかも知れない――
 虜というのは大袈裟かも知れない。しかし。日々佐和子への思いが募ってくるのは間違いのないことで、佐和子にもそれが分かっているようだった。
 待ち合わせはいつも同じ喫茶店。知り合ったあの店である。
作品名:短編集107(過去作品) 作家名:森本晃次