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短編集107(過去作品)

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 事実なのだからしょうがない。受験というのはそういうことだ。定員が決まっていて、いくら点数がよくても、上位から定員に達していなければ合格できない。逆に平均点が低ければ、点数が悪くとも合格することだってある。それを考えると虚しくなるのだ。
――受験は、人との競争のはずなのに、結局は孤独な戦いなんだわ――
 誰が何点取るかなど、分かるわけもない。そんなことを気にしていたら勉強などできるはずもない。
 考えてみれば塾だって皆に公平に教えているではないか。学校と違って合格するために授業料を払って行っているのだ。確かに人よりも余計に理解し勉強すればいいのだろうが、結局は分からない世界である。まわりの生徒に対して疑心暗鬼になっても仕方がないだろう。中には露骨に闘争心むき出しの人もいる。しかし、それも却って分かりやすくていいのだろうが、それが鬱陶しく感じられるときは、自己嫌悪に陥っている時だ。
 自己嫌悪というよりも鬱状態なのかも知れない。
 時々陥る鬱状態には以前から気付いていた。それは記憶喪失になった頃に感じたのが最初だっただろうか。記憶を失っていると、意外と精神的には安定していた。安定していたのに、一定の時期になると、記憶がない自分がとても情けなく感じ、自己嫌悪に陥ってしまっていた。それを知っていたのは両親だったが、
「焦ることはないの、記憶だってそのうちに戻るわ。お医者さんだって言っていたわよ。焦ることないって」
 と言われたが、遠くの方で聞こえるだけだった。
 そんな時にもう一人の自分の存在に気付いていた。
 すべてが他人事のように思えてくる。何しろ記憶がないのだから、それも当然ではないだろうか。記憶を失っているということは、自分が自分ではないような気持ちが一番表に出ている。だからこそ誰にも相談できずに人との会話もなくなる。それまでが明朗快活な性格であればなおさら痛ましく見えるのではないだろうか、聡子はまさしく親から見てそんな女の子だったに違いない。
 公園のベンチで佇んでいる男性を見た時、もう一人の自分の存在に気付いているように思えてならなかった。彼が記憶を失っているようには見えなかったが、どこか上の空で、何を考えているか分からない雰囲気のくせに、一定の短い感覚で、一瞬ビクッと動いたのを思い出した。それは聡子の存在に対してではなく、他の見えない何かに対しての反応だった。
 聡子には分かっていた。それが自分にしか見えないもう一人の自分の存在であることを……。
 しかし、本当にもう一人の自分が見えているのかは分からない。実際に聡子ももう一人の自分を見ているつもりなのだが、後から思い出すと、自分の顔は思い出せない。考えてみれば、自分の顔の印象というのは、一番分からないものではないだろうか。
 女性であれば毎日数十分は鏡の前に座って化粧をするので自分の顔を見るだろうが、それとて、自分だと意識して見るために他の人を見るのとではまるっきり違っている。
 しかもいつも距離は一定、その日の精神状態で表情は違うはずなのに、鏡に写る自分の顔は、どんな精神状態の時でもあまり変わらないように思える。要するにいつもポーカーフェイスの自分の顔しか見ることはないのだ。
 それも分かっているつもりである。ベンチに座っていた男性もよく見ればずっと同じ表情だった。離れていても近づいても表情にまったく変化はなかった。
――私が見ているのは、もう一人の彼なのかも知れないわ――
 と考えたくらいだ。
 しかしそこまで考えると、もう一つの考えも浮かんでくる。
――彼がもう一人の彼なら、私ももう一人の私なんじゃないかしら――
 と感じた。
 しかし、その二つの考えは一瞬で、すぐに否定した。
――いや、そんなことはないわ。なぜって? そう、あの時二人ともの影を感じたはずじゃないの――
 影を感じるということは、実際の自分たちである。そのことに気付くまでに恐ろしくあっという間だったように思えた。もう一人の自分の存在に気付き、公園での会話にもう一人の自分を感じるまでに時間が掛かったわりには、否定にはあっという間だったのだ。
――どこかに怯えていたんだわ――
 彼のどこかに怯えていた。彼も聡子のどこかに怯えていた。それはお互いのことを知っていて、それを知られることへの怯えではなかったか。飛躍した考えだが、聡子の中でそう感じずにはいられない。
 もし彼を知っているとすれば記憶を失う前に違いない。
 彼の雰囲気を見ていると、自分が記憶を失った時のことを思い出す。ひょっとして、彼は今記憶喪失に陥っているのかも知れない。
 しかし、その記憶喪失というのは大きなものではない。ひょっとすると、夜になると記憶の一部を思い出して、あの公園のベンチに座っていることで何かを思い出せると思っていたに違いない。
 いや、それとも聡子の出現を待っていたのかも知れない。彼との会話には違和感はまるでなかった。以前から知り合いだったかのように、会話もスムーズだった。
――私は彼のことを知っている。彼も私のことを知っている――
 と感じるのは、そのためである。
 木枯らしが吹きすさぶ季節になってくる。夜になると、風が耳の奥を通り抜け、静かな夜に風の音を余計に感じる季節でもある。
 空気が乾燥しているので、寒いのだが気持ち悪さはない。空も綺麗に見えている。
 月明かりが恋しい季節。明るさを少しでも求めようとして、足元を見るのは、影を意識しているからだ。明るいと、影がクッキリしてくるのだが、ある一定の明るさになると、影を見るのが怖くなることがある。
 街灯から照らされた影は、足元から放射状にいくつも現れて、あまり気持ちのいいものではない。しかし、それも慣れてくると、意識もしなくなる。それでも一定の明るさになると、見えてくる影が自分とまったく同じ大きさの影であることに気付くからだ。
――もう一人の自分って――
 ここまでくれば、影を意識しながら歩かないわけにはいかない。足元ばかりを気にして歩いているのだ。
 それは途中で環境が変わっても、陰が消えるわけではない。いつの間にか大通りに出ていても、意識するのは自分の影である。
 まわりの音もまったく気にならなくなっている。歩いていて前から車が来ても分からないのではないか。
「ブー」
 遠くから車のクラクションの音が聞こえてくる。それが自分に当てられたものであるなど分からない。
――もう一人の自分――
 それが足元から伸びる影だった。交通事故に遭った時とは、まさしくその時ではなかっただろうか。そのことを教えてくれたのが、公園で見かけた彼だったのだ。
 彼が聡子に対してどのような影響を持っているのか分からない。もう一人の自分の存在を知っている人が他にもいるということを教えてくれただけではないかも知れない。
 今聡子は暖かい気持ちになっている。ポカポカ陽気に誘われて、ほんのりと汗を掻いているが、心地よい汗である。
 昼下がりに襲ってくる睡魔に素直に従っていたが、スヤスヤと気がつけば眠りについていたようだ。
――気がつけば死んでいた――
 そんなブラックユーモアを聞いたことがあるが、
作品名:短編集107(過去作品) 作家名:森本晃次