短編集107(過去作品)
ずっと角しか見ずに歩いている。普段のように足元を見ながら歩いていると、足元に靴音の主の影が映っているのではないかという恐怖に襲われる。
だが本当は映っていることが恐怖ではない。聡子の中に、
――後ろから誰かが忍び寄ってくることなどないはずだ――
という意識がある。そのために
――見えるはずのない影がもし、そこにあったら――
という思いが恐怖に繋がっているのだ。それこそ被害妄想なのかも知れない。
聡子は誰かに追いかけられる夢を見ることが多い。
――これも夢なのかも知れない――
と最初に感じたほどで、しかし、これが夢でないことはすぐに気付いた。なぜなら、
――夢かも知れない――
と感じた時点で、前後の自分の行動を考えること自体、夢ではない証拠であった。夢ならばそこまで考える余裕がないはずだし、考えていたとしても、夢から覚めると忘れている。実際に感じたことなど夢の中ではないと思っている。
きっと、夢であると感じた時点で、夢から覚めているのか、そこから記憶が消えているのかのどちらかなのだろうが、それは、普通の人間に言えることである。聡子のように一度記憶喪失になった人間は、普通の人とは夢に対しての間隔は違う。
夢とはそれほど曖昧なものではない。夢だと感じた瞬間から記憶を失うことなど、聡子の中ではないのだ。夢といっても記憶していることだけが夢を見た内容で、それ以上でもそれ以下でもない。記憶喪失から取り戻した記憶がそのことを教えてくれている。
現実の中をさ迷い歩いていたが、やっと家の近くまで辿り着いた。
――いつの間にか、靴音も消えている――
その思いがさらに聡子を安心させるのだった。
最後の角を曲がると、それまでに感じていた明るさに暖かさを感じた。
――明るさには暖かさをともなうものなんだわ――
と改めて思い知らされる。それまでに通った公園の明かりや、数少ないが他の家からの明かりからは暖かさが感じられない。人の気配を感じないからだ。
家から明かりが漏れているのだから、人は住んでいるのは分かっている。それでも人の気配を感じないということは、聡子が自分で考えているよりも、現実的な性格であることがそのことでも証明されるであろう。
――小学生の頃まではそこまでの感覚はなかったんだけどな。きっとこれも記憶喪失から変わってしまったのかも知れないわ――
と感じていた。
記憶喪失が聡子にもたらしたものは、まわりが考えているよりも大きなものに違いない。
最初はまわりが考えている方が、聡子自身感じていることよりも大きかっただろう。だが、まわりはあまりにもあっけらかんとしている聡子を見ていると安心するのか、それとも時間が解決するという気持ちが強いのか、次第に心配をしなくなってくる。聡子にとってそれはありがたいことで、下手に気にされると、余計に精神的に滅入ってくるかも知れない。だが。聡子は自分の中で最初に感じていたよりも記憶喪失だった時期が自分の中で、どれほどの時間であったか、次第に分からなくなってくる。
記憶を喪失していた期間を記憶を取り戻してからの期間が追い越した時、聡子の中でなんかが弾けたような気がした。それが影を意識することで、明るさに敏感になった時だった。さらに明るさに感じる暖かさの間隔が麻痺してしまっていることに気付いたのもこの時期だった。きっと、それが塾からの帰りに感じた靴音だったに違いない。
あれからしばらくして、ほとぼりが冷めたと思ったのか、家族の前で靴音の話をした。
「それはお父さんの靴音だったのでは?」
そういえば、聡子が帰ってきて部屋に入った瞬間に、父親が帰ってきたこともあった。だが、もしそうだとすると、少しだけ時間が長いように感じる。家に帰り着いてから部屋に入るなどあっという間の時間である。その間に消えてしまった靴音がどうなったのかを考えていたのだが、今度はその時間がさらに長く感じられた。
――一体どうなっているのかしら――
父親でないこおtだけは確かだと思えてならなかったが、その時は母親の話に適当に相槌を打っていた。
聡子の友達には「恐怖症」という言葉のつく感覚を持っている人が少なくないことは知っていた。
「私高いところが苦手なの」
聡子も高いところは苦手なので、気持ちはよく分かる。
開放式のエレベーターに乗っていて、下を見るのは恐ろしい。上がっていきながら足元が急になくなってしまうのではないかなどという他愛もない妄想に駆られてしまうことがあるからだ。
しかし他愛もないといって一言で片付けられるのも辛いもので、本人にしか分からない狭小があるのだと、その時に感じたものだ。
他愛もないと感じたのは、きっと恐怖症を否定しようとしているもう一人の自分がいるからではないだろうか。だが、もう一人の自分がどうしても否定できない恐怖症がある。それが「暗所恐怖症」なのだ。記憶喪失になったことが大きな影響をもたらしていて。飛んでしまった記憶が暗所の中に封印されているように思えてならなかった。
聡子は一人の男性を見かけるが、それは「恐怖症」に怯える自分を見つめるもう一人の自分の存在を感じ始めてからだったであろうか。あまりハッキリとした時期は覚えていないが、その男性の出現は聡子にとってセンセーショナルであったことに違いはない。
塾帰りにバスを降りて家まで歩く住宅街、その途中にある公園に、一人ポツンと座っている男の子を見かけた。背筋を曲げてベンチに座り、肩肘を太ももにつけて、拳を顎に当てている姿は、まるでロダンの「考える人」そのものだった。
「考える人」は銅像であるから美しさがあるのであって、普通の人がしていると、哀愁しか浮かんでこない。銅像にしてもまず浮かんでくるのは哀愁なのだが、そのまま芸術としてのイメージと結びついて美しさを思わせるのだ。普通の人間が、しかも街灯の明かりだけの世界の中にいれば、それこそ哀愁しか見えてこない。却って強烈なインスピレーションに結びつく。
いつものように視線は足元から伸びる影に向いていた。無性に長く感じるその影は不気味に蠢いているように見える、いつも影を気にしているといっても、それは自分の影であって、他の人の影など気になることはなかった。歩いていて自分の影と一緒に他の人の影まで気にできるほど器用な性格ではない。
ベンチの前にあるブランコが揺れている。
「ギーコ、ギーコ」
まさしくそんな擬音がピッタリではないだろうか。実際に音が出ているのかどうか分からないが、少しだけ吹いている冷たい風を感じていると、軋んでいるように聞こえてならないのだった。聡子は思わず公園に入り、彼の前のブランコに腰を掛けた。
両手でブランコを持ち、腰を下ろすと、彼の顔がおぼろげながら見えてきた。
――どこかで見たことがあるような気がするんだけどな――
懐かしさが頭を擡げる。
記憶喪失で何もかも失っていた時、必死に思い出そうとした時とは状況が違う。あの時はとにかく襲ってくる頭痛に耐えながら、何とか思い出そうとしたが、それでも無理なので、
「無理をしてはいけない」
作品名:短編集107(過去作品) 作家名:森本晃次