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短編集107(過去作品)

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 その頃の聡子を記憶喪失となった聡子に見ていたのかも知れない。不安に毎日苛まれてはいたが、母親には素直だった。落ち着きがあるように見えるが、実は不安だけが支配していた時間が聡子には大きかったに違いない。母親だからこそ娘を見ていて、娘の苦悩が分かるのだし、自分も娘と同じように苦悩していたに違いない。その頃が懐かしく思えてきた。
 聡子が記憶を失っていた頃のことを母親はずっと身近な記憶として留め置きたいと思っていたが、それは甘かったようだ。
 聡子自身が、記憶を失った瞬間から記憶を取り戻した瞬間に結び付けてしまったのだから仕方がない。
 それでも一気に記憶が戻ってしまっていなかったことが幸いしているのか、記憶を失っていた頃のいとおしく感じられた聡子を記憶を取り戻した今でも、どうかすると見ることができる。
 母親と一緒にいる時だけ、半年間の聡子に戻れることを知っているのは、当の聡子だけだった。母親には分からなかった。
 聡子はそれを、親孝行のように感じている。親孝行という言葉に弊害があるように思えるのは、自分の意志でしていることではないからだ。記憶を失っていた半年間に戻れることは嫌なことではないが、なるべくなら記憶を取り戻した自分でいたい。なぜならただでさえ半年間をロスしていると思っているからだ。
 父親の前ではありえないことだった。
 聡子の記憶が治るまでの父親は母親と同じように心配していたが、治ってしまえば後は自分のことで精一杯である。一家の大黒柱なので仕方のないことだが、家庭を支えるために仕事に専念することは大切なことだった。
 母親はそのことを分かっている。
 しかし、聡子にはよく分からなかった。
「お父さんって、いつも仕事仕事なのね」
 皮肉の一つも言いたくなる。自分を心配してくれていた半年間の父親に対してのイメージがないからである。
「そんなこと言うもんじゃありません。お父さんだって、聡子のことをいつも心配しているのよ」
 と言ってくれるが、実感として湧いて来ないのだから感じろという方が無理である。
 朝早くから出かけて、夜も遅くならないと帰ってこない父親とは、次第に距離を感じるようになっていった。
 中学三年生になる頃であった。さすがに自分だけの勉強だけでは高校受験は難しいと判断した聡子は、塾に通うことを考えていた。
 母親もそれは考えていて、近所の奥さんたちとの話の中で、塾の話を持ち出すことが多くなっていた。
「いい先生がいる塾があるってよ」
 と聡子に夕食の時に話していたりしたが、そのことは聡子も分かっていて、
「じゃあ、そこにしようかしら」
 母親と意見が一致したことで、通う塾は決まった。聡子にしてみても、友達が一番多く通っているところで、一番安心できるところでもあった。
 バスで通うことになるが、学校が終わってからは、そのまま友達と電車で塾まで行き、帰りだけがバスになる。ちょうど聡子が住んでいる住宅街の入り口まで来るバスがあったからだ。
 そのバスは父親も利用していた。時々一緒になるかも知れないと考えていたが、時間的には父親の方が少し遅い公算が強い。特に最近の父親はプロジェクトの仕事とかで遅いのだと母親から聞かされていた。
 その頃の聡子は自分が記憶喪失だったことをほとんど意識しないようになっていた。
 塾が終わっての帰り道、バスを降りる時は数人いるのだが、途中からは一人になってしまう。住宅街と言っても、まだまだ入居していないところや、建物さえ建っていないところもある。建売分譲のところもあれば、土地だけを売っているところもあるというわけである。
 聡子の住んでいるところは建売分譲地で、建物が建っていないところを通ることはない。しかし、家は建っていても住んでいる人がいないのだろう。いつ歩いても真っ暗な家が多かった。
 途中の公園の明かりだけが無性に明るく感じることがあった。犬の遠吠えなどが聞こえてくると寂しさがこみ上げてくる。そんな時にかつて忘れてしまっていたという記憶が鮮明に呼び起こされるようで気持ち悪い。
――交通事故に遭うのはもう嫌だわ――
 意識過剰にもなっている。しかし、交通事故を防ぐという意味では意識過剰なくらいの方がいいのだろう。聡子はそう自分に言い聞かせていた。
 言い聞かせれば言い聞かせるほど不安が募ってくる。公園の明かりにホッとする自分を感じていると、暗いところに恐ろしく感じている自分がいることに気付く。いわゆる「暗所恐怖症」というやつである。
 しかし、本当にくらいところよりも最近は明るいところの恐怖を感じることも多い。今までは気にしていなかった影、明るいところには不可欠で、ないということは暗いところなので、恐怖に陥るはずの影が、最近は恐怖を煽っていることに気付いていた。
「カツッカツッ」
 静かな乾いた音が後ろから響いてくる。革靴の音であることはすぐに分かった。聡子も制服に革靴なので、乾いた靴音がまわりに反響して想像以上の音を出していることは分かっていたが、その音のようにさらなる反響を感じたことは今までにはなかった。
 男性の靴音であることはすぐに分かった。
 音の間隔が聡子と変わらないにも関わらず、少しずつ大きくなってくるのを感じたからだ。
 最初は聡子と同じ歩調だったので、音に気付かなかった。
――音がいつもよりも大きく、そして響きが耳障りだわ――
 と感じたことで、わざと歩幅を狭めて間隔を早めてみた。すると、微妙ながら音が木霊して聞こえてくるではないか。
――後ろから誰かが来ているんだわ――
 それだけなら、それほど意識はしないだろう。だが、その音は聡子が歩幅を変えたにも関わらず、さらに合わせようという努力をしているように感じた。
 聡子はかなしばりに遭ったかのように普通に歩くしかなかった。駆け出したい衝動に駆られていたが、足が動かないのだ。背中に痛いほどの視線を感じているが振り返ることもできない。
――ひょっとして足元から放射状に広がっている影が、私の足元に忍び寄ってくるかも知れない――
 という恐怖心に駆られながら歩いている時間の何とも長いこと。猛用に動かない足を必死に引きずっているというのが本音で、まるで水中を歩いているような身体全体に重たさを感じていた。
 角を何度も曲がらなければいけないのは、聡子にとって幸運なのか不幸なのか、自分でも分からない。
 角を曲がるたびにホッとする自分がいるが、次の瞬間、さらに靴音が響いてくると、またしても言い知れぬ恐怖に身体が包まれる。角を曲がる瞬間に、靴音が一瞬だけ消えてしまうのだ。
 その瞬間に駆け出せばいいのだろうが、猛烈な虚脱感が身体を遅い、駆け出す気力は失せてしまっている。身体に再度緊張が走った時にはすでに遅く、駆け出そうにも、またしても身体全体に重たさを感じてしまう。
――こんな間隔以前にも味わったことがある――
 と思うのだが、いつ、どこでだったのか、まったく分からない。しかし、その時のシチュエーションと今とではあまり変わりがないように思えてならない。
 何度か角を曲がって、家も近くなってきた。
 最後の角が近づいてくると、気持ち的には安心である。
作品名:短編集107(過去作品) 作家名:森本晃次