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短編集107(過去作品)

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交通事故



                交通事故


 小さい頃に感じたトラウマが、そのまま恐怖心として残ってしまうことは往々にしてあるものだ。聡子は小学生の頃に交通事故に遭ったことで、暗所恐怖症に陥ってしまっていた。身体にはそれほど後遺症が起こるような傷はなかったが、身体以外ではかなりひどかった。
「身体が無事だっただけでも不幸中の幸いだ」
と、両親は真剣に考えていた。
 聡子は事故に遭ってしばらく記憶を失っていた。
「すぐに思い出すこともあるかも知れませんが、何とも言えません。それが明日なのか、それとも一年後なのか、何かきっかけがあればいいのですが」
 無理をしても思い出せるものではない。無理をすれば精神的に苦しむだけで、根気よく思い出すしかない。記憶喪失は病気であって病気ではない。きっかけが必要だった。
「完全な記憶喪失ではありませんね。事故の瞬間を中心としたものですから、気持ちの中から恐怖心が消えていけば、徐々に思い出してくると思いますよ」
 完全な記憶喪失でないことも不幸中の幸いだったであろう。
「どうしてこの娘が……」
 母親は少しの間、落胆を隠せないでいた。
「だが、先生の言うとおりだぞ、大したケガでもなく、記憶喪失も完全ではないというのは不幸中の幸いなんだからな」
「ええ、分かっているわ。でも、いつも一緒にいて見つめている私の身にもなってくださいな」
「そうだったね。でも、今はゆっくり見つめてあげるしかないじゃないか。先生の言うことにしたがって、根気よく見守ってあげることだね」
「ええ、そうします」
 そんな会話が繰り広げられていたようだ。
 母親は、普段は楽天的な性格なのだが、娘が事故に遭い、記憶を失うというショッキングなことにはさすがに気が動転してしまっていたようだ。普段からあまり物事を深く考えないだけに、考え始めると次第に深みに入り込んでしまう。
 事故に遭ったその日、聡子は学習塾に出かける途中だった。普段は大きな通りを歩いていくのだが、その日に限って少し遅れてしまったので、近道にあたる住宅街の細い道を歩くことにした。
 昼間であればそれほど気になる道ではないが、日が暮れてくると、寂しさが忍び寄ってくる。道が狭いために、寒くなってくると吹き抜ける風が骨身に沁みるほど、頬を切る感覚になるのが分かる。
 街灯も暗く、歩く人もほとんどいない。道が狭いこともあって、あまり車が入り込むことはなく、住宅街に住んでいる人が通勤に使っている程度であろう。
 遠くからは犬の遠吠えが聞こえてくる。
――近くから聞こえてくるようだわ――
 と思うほどまわりの建物に鳴き声が反響し、暗さから実際にどこを歩いているか分からなくなってしまうこともあった。
 住宅街というのは、どこでも同じようなものなのだろうか。角を曲がっても同じような光景が見えてきて、まるで袋小路に入り込んでしまったような錯覚に陥ることがある。特に夜になると、どこをどう歩いているのか分からなくなりそうになったりする。
 住宅街にはいくつか児童公園ができていて、いくつかの角を曲がると、まるでまた同じ場所に戻っているように思う。何度かその光景を見たことがあって、子供心に気持ち悪さを感じたものだった。
 彷徨ってしまったわけではなく、気がつけば同じような場所に出てしまってビックリすることがある。違う光景だというのは分かっているのに、どうしてもさっき見た残像が消えずに、自信がなくなってしまうのだ。
 そんな状態が時々気持ち悪さから何かの恐怖症ではないかと思っていたが、何の恐怖症なのかハッキリと分からなかった。交通事故に遭ったのは、そんな時である。
 ほとんど車も通らない道の端っこを普通に歩いていた。自分の影を見つめながら歩いていたのだが、街灯が適度な距離に立っているので、影が自分の足元を中心に放射線状に、いくつも広がっている。歩くたびに縁を描くように大きくなったり小さくなったりしているのだが、それを見ていると、目が離せなくなっていた。
 それまでにも自分の足元から広がる放射線状の影を見つめながら歩いたことはある。しかし、その時はいつも家族と一緒で、両親の後ろから少し離れて歩いていた。
「聡子、早く歩きなさい」
 と言われて、急ぎ足になった記憶がある。両親の後ろを歩いているという安心感があったのだ。
 だが、一人で歩きながら足元を見ていると、次第に不安になってくる。前を見ようとせずに足元ばかり見ているのは、足元に広がる影を恐れているからに他ならない。まさか、影が自分に襲い掛かってくるなど考えられないが、目を離すと影が消えてしまうのではないかという恐怖心があったのだ。
――何の根拠もない恐怖心に、怯えているなんて――
 心のどこかでそう感じていると思うのだが、意識として、そんなことを考える余裕はどこにもなかったはずである。
 すべては後になって思ったことだろう。それほど暗い夜道を歩く時に、自分の中に余裕などない。すべてが過去のことになってしまった瞬間、現実だったことが、夢のような意識に変わってしまうことは往々にしてあるだろう。特に恐怖に感じることはそうに違いない。逆にその時と、過去になって考えられることのギャップが恐怖心の存在を実感させるものになっているようだ。
 下を見ながら道を歩いていて、
「私はまっすぐに歩けるんだ」
 と言い切れる人が何人いるだろうか?
 まっすぐに歩いているつもりでも、気がつけば道の真ん中を歩いていることだってあるはずだ。
「考えごとをしているからかも」
 という人もいるが、確かに考えごとをしていれば、下を向きながら歩いていることもあるだろう。だが、足元に視線が集中しているというわけではなく、
「下を向いているのではなく、俯いているだけ」
 ということになり、決して下に映っているものに集中しているわけではない。そんな人がまっすぐに歩けるものではないと思っている。
 では、まっすぐに歩こうという意識を持って歩いている人はどうだろう?
 道の両側に引いてある白い線、これを目印にまっすぐに歩こうとしたことのある人は、かなりいるのではないだろうか。実際に聡子も線に沿って歩いてみたことがあるが、これが結構難しい。まっすぐに歩いているつもりでも、どこかで足がはみ出してしまって、それを戻そうとすると、今度は反対側にはみ出してしまう。
――平衡感覚がうまく行かないのね――
 線を跨いで肩幅ほどの余裕があればいいのだろうが、一つの線を元にすると安定感は鈍ってしまうものである。
 聡子はそれでもまっすぐに歩こうと努力をしていた。それは足元に集中していたからである。自分のまわりで回っている影はすべて自分の影であって、その中心が自分である。道にまっすぐに平行に連立している街灯から映し出される影を綺麗な放射線状に映し出そうとすると、自然にまっすぐに歩くことを心がけるはずである。無意識のうちに聡子はまっすぐ歩いていたに違いない。
 だが、無意識といっても、そこまで考えていることは自分でも分かっていた。理解しながら歩いているのだが、無意識であった。
――これって本能のようなものなのかも知れないわ――
作品名:短編集107(過去作品) 作家名:森本晃次