短編集107(過去作品)
彼は就職して、サラリーマンの道、梨乃は物書きとしてフリーのルポライターを選ぶこともお互いに分かっていた。それだけお互いのことを分かっていたのだ。
いい時期にキッパリと別れられる二人というのは、本当に素晴らしかったのかも知れない。
だが、女として一抹の寂しさがあったのも事実で、彼氏にその寂しさが分からないはずもない。彼も同じ寂しさを感じていることが分かったからだ。
――別れて初めて相手の大きさを知るということがあるらしいけれど、それって本当のことなんだわ――
梨乃はフリーになって、初めてそのことに気づいた。
それから梨乃は男性と付き合うことはなかった。
あれから七年という歳月が経ってしまったことを、梨乃は次第に感じることが少なくなっていった。
達也がちょうど三泊目の時に梨乃が達也の泊まっている宿に宿泊することになった。そのことをお互いに最初の日は知らなかったが、宿泊客が他にいるわけでもないのに、同じ宿に物書きが二人、こんな偶然もあまりあることではないだろう。
宿を出ると、前に川が流れている。川を上って少し山に入ると、小さいが滝になっている。その光景を見るのが達也の日課になっていた。
「滝というのは、見ているだけで心が洗われるようですね」
有名作家がテレビのインタビューでそう答えていた。達也もその意見に賛成で、達也の田舎にも滝があったが、いつも見慣れているために、その滝に対しては、そこまで感じたことはなかった。
――ここの滝は小さいが、迫力はあるな――
滝を見ていて達也は感じた。
後ろからやってくる梨乃にその時達也は気付かなかったが、梨乃の方も、目の前にいる達也を意識していなかった。それだけ滝が壮大に見えて、人間が小さく感じられたのだった。
「こんにちは」
最初に意識したのは達也だった。
「こんにちは」
一言挨拶しただけで、梨乃はそれ以上話をしない。達也も滝に見とれていたので、下手に会話をしたくないという心境もあった。二人して滝を見上げていたが、それがどれほどの時間であったか分からない。達也の側の本音をいえば、先に彼女にその場から立ち去ってほしい気持ちになっていた。だが。同じことを梨乃も考えていたなど、達也は知る由もなかった。
お互いに同じことを考えていたのに、それが噛み合わないというのも皮肉なことである。梨乃はどちらかというと相手の気持ちを察するのが上手な方なのに、その時の達也の心境はまったく分からなかった、それだけに達也に興味を持ったのかも知れない。
達也の方にも梨乃に対して少なからずの興味はあった。
相手が女性だというだけではない。確かにそれまで女性から遠ざかっていたような生活をしていたこともあるが、それ以上に、梨乃の視線を感じたのだ。
熱い視線というわけでもない。慕われている視線とはまるで違う。どちらかというと、大いに疑念を抱いた視線であることは明白で、
――一体この人どういう人なのかしら――
と言いたげであった。当たらずとも遠からじであろう。
滝を見終わってそのまま宿に帰った梨乃だが、達也はそれからさらに少し山の中に入った。滝の上に回りこむことができ、達也は滝を正面から見るだけではなく、滝をまた違った角度から見ることで、正面からのイメージをさらに深めて見ることができることを知っていた。
梨乃にもいずれ教えてあげたいという衝動に駆られたが、こんなことを考える自分に、思わず苦笑してしまった。
自分が発見したことを軽々しく人に教えるなど、今までであったら絶対にしなかったであろう。せっかく自分が発見したことを人に教えてしまうと、神秘性が半減してしまうと思っている。達也のように、自分ですべてのものを創造して書き上げるフィクション作家にとって、その考えは不可欠なものだと思っている。
達也は最初に梨乃を見た時に、何となく彼女もものを書いている人であるという予感はあった。だが、自分とは違って、同じ空気を持っていないのも分かっていたので、ノンフィクション関係であると思ったのである。
梨乃も達也に対して同じような匂いを感じていた。
梨乃は達也に感じたことは、
――この人は自分にない何かを持っているのだ――
ということだった。
「こんにちは」
という挨拶だけだったが、挨拶だけで分かることもある。梨乃はさっきの数分間だけで、まるでずっと前から知り合いだったように思えてならなかった。
――そういえば、この感覚――
「君とはずっと前から知り合いだったような気がするんだ」
大学を卒業してルポライターとしての一年目だっただろうか。とある田舎町に出かけた時に出会った一人のルポライター、彼も同じようなことを言っていた。
梨乃はまだ一年目で、仕事だけに集中していたので、男性として相手を意識することはなかったが、明らかに相手は梨乃を女性として意識していた。
――でも、あまり素行のいい人には思えなかったな――
と感じたことだけは覚えている。ハッキリと覚えていないのは、そのイメージがあったから、わざと意識の外に置いていたからに違いない。
その男の、
「君とはずっと前から知り合いだったような気がするんだ」
というセリフ、女性を落とす常套手段ではないかという思い込みがあった。梨乃が仕事に集中していたので、必要以上に男性に対して警戒心を持っていたのかも知れない。
――だけど、まさか自分が同じことを感じるなんて――
複雑な心境で、自己嫌悪にも陥りそうな気分になっていた。
しかし、自己嫌悪に陥ることはないことを梨乃は分かっている。前から知り合いだったように思う心境に心地よさを感じるからだ。あまり素行のいい人ではないように思えたが、どこか新鮮に感じられたのは、きっと、彼の言葉や行動が、考えなしに行われていたからかも知れないと今さらながらに感じる。衝動的な行動が多かったのだ。
梨乃は一つの事実や、目の前に存在しているものから、いろいろ想像を膨らませて、一つの記事を書く。そのほとんどが事実なのだが、そこに主観が入ると、生地に膨らみが出ることを分かっている。それが自分のルポライターとしての信条だと思っていた。
達也にはそこの違いを感じていた。
達也が作家であることは梨乃の中では間違いないことだと確信を持っていた。勝手な想像が梨乃の中で浮かんでくる。
「先ほどは失礼しました」
梨乃の方から達也に話しかけた。
場所は宿のロビーで、達也は浴衣を着て、新聞を読んでいた。その光景に梨乃は男性の匂いを感じていた。
お互いに自分が物書きであることを話し、しかもお互いに相手が物書きであることを最初に分かっていたことを話すと、会話が弾んできそうな予感だった。
「そうなんですよ。フィクションを書いているからといって、最初からすべてが想像して書くなんてできませんからね。そこは、今までの経験や、願望などが作風に出てくるわけです」
達也は饒舌だった。
「ルポライターというのも、同じではありませんか? すべてを事実だけで書いてしまっては、深みがありませんからね」
作品名:短編集107(過去作品) 作家名:森本晃次