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短編集107(過去作品)

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 それまではお嬢さんだと自分でも思っていた。人に逆らうことも、目立つことさえもできないタイプだと思っていたのに、一人旅をするようになって、自分から目立ちたいと思うようになっていた。
 それからであった。梨乃は自分が加算法の考え方を持っていることに気付いたのだった。
 加算法というのはプラス思考と少し違っている。本人はずっとプラス思考と同じだと思っていたが、加算法の仲にはマイナス思考の加算法も含まれている。
 要するに二重人格になりえる性格であるということだ。
 成長期の高校時代は、ほとんどがプラス思考だった。だが、それは先が見えたプラス思考で、見えている限界から先に進むことはできない。先が見えているだけに、安心感もあるが、それ以上の冒険ができないということは、高校を卒業して寂しさの一つであったことに気付いた。
 高校時代というのは、どうしても決められたカリキュラムの中での生活であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 大学に入っても、所詮学生なのだから、社会人にはるか及ばないところがあるのは自覚していた。
 自覚できるのも、自分が加算法の考え方を持っているからだった。
 一つのことを考えていて、それが一つで終わらない。それだけに最初に考える時のことが大切なのだ。
 悪い方に考えるか、いい方に考えるかで上を向くか、俯いてしまうか決まってしまう。すべてがいい方に向いてくれればそれに越したことはないのだが、なかなかそういうわけにもいかない。そのことは大学に入って分かってきた。
 高校までと違って大学に入れば、何でも自由である。
 授業を受ける受けないすらも自由で、一見開放的でまるでレジャーにでも出かける気分になってしまう。
 しかし、甘えていると、結局そのつけは自分に振り返ってくるのだ。
 勉強をしないと単位が取れずに卒後もままならなくなる。それでも要領のいい人はうまく成績を取って卒業できるのだが、器用に立ち回ることのできない人は、えてして損をするというものである。
 そのことにいち早く気付いた梨乃は、勉強も怠らなかった。
――それにしてもよく気付いたものだわ――
 これも偶然だったのかも知れないが、今から思えば、なるべくしてなったことだった。
 梨乃が大学二年生になった頃も、相変わらず取材旅行を重ねていた。
 その頃にはサークルの機関紙程度では満足できずに、出版社へ売り込みに行っていたほどだ。
 一度大学一年生の時に、コンクールに応募して、佳作を取ったことが、梨乃を有頂天にさせた。それまでに自分の表したものが、世間一般に評価を受けるなど一度もなかったからだ。
 自信を持つと、そこから、また加算法になってしまう。
 自信が自信を呼び、有頂天になるのはいいのだが、自分を見失ってしまうことも往々にしてあった。佳作を取ったその時、まさしく梨乃は絶頂にあったのだ。
 有頂天の梨乃にとって、自分のまわりに起きていることはすべて自分にいい方に回っているような錯覚に陥る。都合よく物事を考えてしまって、それまで慎重な気持ちになっていたはずなのに、感覚が麻痺してしまったりしていた。
 ちょうどそんな時、彼氏ができたのだ。
 相手に告白されるまで、その人が自分を気にしていたなど思いもしなかった。
 有頂天ではあったが、男性には目が行っていなかったのだ。彼氏がほしいとは常々思っていた。それは高校生の頃からで、自分には縁のないものだと諦めかけていたこともあった。
 だが、友達が彼氏と一緒にいて楽しそうな表情をしたり、先に約束していても、彼氏との約束を優先されたりと、本来なら失礼な態度なはずなのに、
「彼氏となら仕方がないか」
 と言って諦めていたりした。
 それは皮肉ではなく、真剣にそう感じていた。
「その代わり、私に彼氏ができたら、同じようにするからね」
 と言っていたが、これは半分皮肉が篭った本音だった。
 告白してきた男性は、それまでは普通の友達だった。もし、友達でなければ、告白されても一歩引いていたかも知れないが、まったく知らない相手ではないので、気持ちの中ではまんざらでもなかった。何しろ、その男性には少なからずの好印象を持っていたからに他ならないからだ。
 程なく二人は交際を始めた。
 付き合いはお互いに恥ずかしがって他の人から見ればじれったく見えたに違いない。それでもお互いに、暖かい空気に包まれていたことは事実で、何とも心地よい時間を過ごしていたことに違いはなかった。
 梨乃が初めて知った男性でもあった。
 プラトニックに付き合っている頃には感じたことのない男としての匂い。それを感じ始めると、
――いよいよかな――
 と思うようになった。
 男性を受け入れることには抵抗があったが、相手が彼なら悪くはない。
――彼でなければいけないんだ――
 と思うようになっていて、相手もそんな梨乃の覚悟を分かっていたに違いない。
 一緒にバーで呑むことも何度かあったが、その日の彼の横顔には、違う光が差していた。梨乃自身にもそれなりの覚悟があった日には違いなかったが、それを彼が分かってくれていたかは疑問である。
「今日は、少し酔わせてみたいな」
「えっ」
 普段ならこそばくなってしまうような会話なのに、その日はそうでもなかった。何を言われても頭に入っていないかも知れないと思ったからだが、意外とその時のことを思い出すことができるのは、今でも不思議である。
 といっても、いつでも思い出せるわけではない。何かのきっかけで思い出すことができるのだが、その時は詳細に覚えている。しかも、まるで前日のことのようにである。
 その瞬間だけ、時間を飛び越え、タイムスリップしてしまったかのように思えるのは、やはり、その時の心境が独特で、大人の世界を初めて垣間見た時だったからなのかも知れない。
――無意識のうちに未来を見ていたのかも知れない――
 そう感じるのはその時だけではなかった。
 歴史が好きになった時から、過去へ過去へと目が向いていた。今でもそれは変わっていないが、過去からさらに過去へと進むのはまさしく加算法の考え方ではないだろうか。そういう意味では未来に目を向けると、自分の中で無意識に未来から過去を見ている自分の存在に気付いていたのかも知れない。
 過去を振り返ることはあまりいいことだとは言われないが、それは歴史認識の甘さで、歴史が苦手な人のいいわけではないかとさえ思えてくる。
 梨乃の中での歴史は、人々の積み重ねてきたものを見ることで、最終的には自分の中の歴史である。大きなところから次第に小さく見えていって、初めて自分というものを見つめることができると考えるようになったのは、ごく最近のことだった。
 付き合っていた彼氏とは、大学卒業と同時に別れた。
 別れることに違和感はなかった。お互いに暗黙の了解のようなものがあり、
「学生時代だったから、お互いにうまく付き合えたんだろうね」
「そうね、お互いに一番輝いている時間だったのかも知れないわ」
 この言葉も半分だけ本音だった。
 これからの人生はもっともっといいことの加算法だと思っているくせに、彼氏と一緒にいる時間がここで終わることは、一つの区切りであった。
作品名:短編集107(過去作品) 作家名:森本晃次