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短編集107(過去作品)

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――なるほど、玄関先でカメラを向けたのも、無意識に綺麗なものを撮りたかっただけなのかも知れないわ――
 女将は楽天的にそう考えた。その考えは間違いではないだろう。女将が彼女の立場でも、綺麗なものを見れば無意識にカメラを向けるのではないかと考えたからだ。
――サングラスというのは、表情が見えないだけに、損することの方が多いようね――
 いろいろな荷物にサングラス、最初に胡散臭いと思ってしまった自分に思い込みがあってしまったことが後から思えば恥ずかしい限りである。
 彼女は少し落ち着くと、まず温泉に入った。この宿は正午から二時間ほど清掃に露天風呂を閉鎖する程度で、後は使用できる。これがこの宿の自慢でもあった。梨乃が到着したのは午後三時過ぎなので、露天風呂に入るには十分な時間だ。
「昼下がりの露天風呂って最高なんですよ」
 これは梨乃が今までにルポして感じたことを何度も記事にしていた。
 夜の景色も最高なのだが、昼も悪くない。梨乃は都会生まれの都会育ち。都会の昼下がりとの違いを肌で感じるのは、露天風呂に浸かっている時だった。
 彼女がルポライターになりたいと考えたきっかけは、あまりハッキリとしたものではない。
 小学生の頃に作文で先生に褒められてから、ものを書くことが好きになった。
――適当に書くことで褒められたんだわ――
 嬉しいに越したことはないが、それだけのことである。別に努力が報われたわけでもなく、作文がうまいからといって、それが何かの特になるとは、小学生の梨乃には想像もできなかった。
 それよりも、算数、国語と受験勉強に精を出していた。中学受験を目指していたのだ。
 小学生の低学年は、あまり勉強が好きではなかった。
――どうして勉強なんてしなきゃいけないのかしら――
 現実的なものの考え方をする小学生だった梨乃は、自分で理解できないことをするのを心のどこかで拒んでいた。
「ちゃんとお勉強しなさい」
 母親からは説教される。父親は仕事が忙しいらしく、なかなか顔を合わせることはなかったので、親というと、ガミガミうるさい母親しか意識がなかった。そんな梨乃なので、親を敬遠したくなるのも無理のないことだった。
――親の言うことなんて、聞かないわ――
 その気持ちから現実的でないことは、敬遠する性格が形成されていったに違いない。
 梨乃の家庭は、父親が会社社長をしているだけあって、上流階級の生活だった。家には母親だけではなく、家政婦の人もいて、どちらかというと、家政婦の人との会話が多いほどだった。それでも家政婦を全面的に信用していたわけではなく、話し相手に時々なってもらっていたという程度である。恵まれた家庭ではあったが、精神的なところではどうだったのであろう。
 梨乃が勉強をし始めたきっかけは、やはり勉強が楽しくなったからである。算数が好きになり、その理由は答えが一つだということだ。
 プロセスがどのようであっても、理論的に答えて、一つの答えを導き出せばいいのだ。
 プロセスがどのようなものであってもいいというところが気に入っていた。一つのことに捉われることなく、柔軟な考えを持ちたいというのが自分の考えだということに気付いたのはその時が最初だったであろう。何しろ答えが一つなので、導き出された答えをすぐに検証できるところも気に入った。
 勉強の効果があって、梨乃は有名中学に入学することができた。入学当時は有頂天だった。元々自分から選んだ道を進んで、掴んだ栄光である。大袈裟だが、中学入学当時の梨乃は、そこまで思っていた。
 しかし。現実はそれほど甘くない。
 中学に入ると成績は中間までもいかなかった。考えてみれば当たり前である。
 いくら小学生時代にトップクラスでも、自分と同じような人たちが受験して、ハードルを越えてきた人たちばかりである。優秀な生徒が揃っている。
――私も負けられないわ――
 と、そこで頑張ればよかったのだろうが、ある意味受験までで自分のテンションを使い果たしていた。成績が中間くらいだったというショックも簡単には払拭できず、これ以上肩肘を張って勉強する気力は失せていた。
――算数が数学に変わったのも、やる気をなくした理由だったわね――
 今でも梨乃はそう感じている。
 確かに算数と同じで、数学も答えは一つであるが、プロセスは決まっている。
 過去の数学者が発見してきた公式に則って答えを導き出すのが数学。そのように先生も教えているし、教科書もそうなっている。
――型に嵌められるのは苦手だ――
 梨乃はそう思っていた。あれだけ好きだった算数が数学になったことで、勉強に対する興味はほとんどなくなってしまった。
――私だけではないかも知れない――
 と思っていたのは、自分に言い聞かせるための理由付けだったに違いない。
 それでも好きな科目はあった。
 歴史が好きだった。
 歴史は小学生の頃の社会の時間で触りだけ習ったが、嫌いな科目ではなかった。ただ、受験科目ではなかったことで、あまり興味を示さないようにと故意に歴史というものを遠ざけていたのだった。
 中学に入って、歴史の先生が眩しく見えた。歴史の裏話に通じるような面白い話をしてくれたからで、歴史に対する興味は一気に膨らんでいった。
 今から思えば、それが正解だったのかも知れない。
 大学に入って、歴史の話題が出ると、自分から話しかけるようになった梨乃だったが、中には歴史の話にはまったくついて来れない人もいる。
――もし、中学の時に歴史に興味がなければ、どうなっていたかしら――
 まったく話について来れない人を見て、
――教養のない人だ――
 と無意識にレッテルを貼っている自分に気付いた。
 歴史の話は世間話ではあるが、教養のあるなしが一番序実に現れるからであった。知っているのと知らないのとでは、明らかにその人自身の表情も、まわりがその人を見る表情もまるっきり違う。知っている人にはまわりからの尊敬と本人に自信が感じられ、知らない人には、まったく相手にするだけの雰囲気が感じられない。
 歴史に興味を持つようになって、高校時代には歴史研究部に所属することになった。そのクラブでは、毎年の研究の成果として、機関紙を発行していたのだ。
 一年に二度ほどだが、そのために梨乃は取材と称して旅行に出ることもあった。
 友達と出かけた旅行で取材を敢行したこともあったが、なかなか思ったようにはいかなかった。やはり取材に出かけるには一人旅がいいに決まっている。
 取材を続ける中で、田舎と都会の違いが次第に分かってくるようになった。ハッキリとどこが違うと口にできるものではないが、人間性やその土地の考え方に、都会と田舎では大きな違いがある。
 都会で、しかも裕福に育った梨乃にとって、それは衝撃的だった。田舎の人間は都会の人に比べて純粋で優しいという単純な考えを持っていたが、どうやらそうでもないようだ。額面どおりに考えていると、痛い目に遭いそうである。
――結構、私って活発な性格なのかも知れないわ――
作品名:短編集107(過去作品) 作家名:森本晃次