短編集107(過去作品)
学生時代から旅は好きだった。親に連れて行ってもらう旅もそうだったが、修学旅行で団体生活をすることを知って、一度旅のよさが分からなくなったが、大学になって時間に余裕ができて出かけた一人旅で、本当の旅の醍醐味を知ることができたように思えたのだった。
作品が出来上がってホッとしてから旅に出るようになったのは、知り合いからおいしい蕎麦のあるところを教えてもらってからである。
「ちょっと遠いんだけど、仕事を終えて一段落すれば、ちょっとした小旅行になっていいじゃないか」
と言われた。
――それもそうだ――
と感じることで、旅に出かけたのだが、蕎麦のおいしいところには温泉があった。そこの風情がまた落ち着けていいのだ。
達也の作風は不思議な話が多いのだが、背景は落ち着いた田舎町を描くことが多かった。田舎育ちの人間が、都会に移り住んで暮らしていると、想像することといえば田舎の風景である。頭の中に記憶された風景が、何のわだかまりもなく出てくる。自然な描写は、田舎育ちだからこそできるのだ。
読者うけも悪くなかった。田舎を知らずに田舎に憧れているが、知らないだけに住んでみたいとは思わない。
「せめて小説で住んでいる感覚を味わえるなら」
というのが本音なのに違いない。
田舎の暮らしは懐かしく思うが、今さら田舎に戻るなど考えられない。小説家の他の人は、
「いずれ、どこか田舎に家を建てて、そこを自分の仕事場にしたいものだ」
と言っている人もいるが、達也は田舎に戻ろうとは思わない。都会にいるからこそ、小説を書いていけるのだ。
都会にいて田舎を思って書くからこそ、想像力が掻き立てられる。田舎にいて、目の前の風景を書いていても、必ずどこかで無理が来る。小説に書けるほど田舎の生活に変化はないからだ。温泉でのんびりとしているのを見ると、
「田舎が懐かしいだろう」
という人もいるが、決してそんなことはない。同じ田舎といっても、都会から見れば同じように見えるかも知れないが、田舎育ちの達也が考えるに、まったく違った世界なのである。
小学生の頃に見た特撮アニメなどを思い出す。
特定の星の宇宙人が地球に攻めてくるという典型的な特撮の話で、宇宙人一人をやっつけると、その星の星人はそれだけで地球侵略を諦めてしまう。たった一人がやられただけなのに、地球人も、それで侵略が終わったように思っている。
一つのお話なのだから当然の結末なのだろうが、子供心に不思議に思っていた。それも、一体何が不思議なのかハッキリと分かっていないはずなのにである。
同じ田舎でも、田舎の生活を知っている達也には、観光地や温泉地の生活は分からない。落ち着けるから来たので、自分の田舎を思い出すことはなるべくしてはいけないのだろうが、思い出すものを無理にやめることもサラサラない。何も考えずに、蛇行して昇っていく湯気をボンヤリと見ていた。
「こんにちは、今日からお世話になります」
「いらっしゃいませ。ご予約の星野梨乃様ですね?」
「はい、そうです。とても素敵なところですね」
「ありがとうございます」
決して派手ではないが、カメラやリュックサック、真っ赤な帽子と、まるで登山のような出で立ちで、サングラスをかけていることから、一瞬温泉宿には場違いに見える。玄関で荷物を降ろすと、玄関から入り口を見渡しながら、会話もそこそこにカメラを撮り始めた。
これには少し女将さんもビックリしているようだった。
「お客様は一体……」
まわりが慌てているのに気付いた梨乃は、
「これは失礼しました。私はフリーのルポライターをしています」
今までに温泉取材などで何度かテレビや雑誌の人から取材を受けてきたが、彼女のようなフリーのライターは初めてである。
戸惑ったのも無理もない。テレビや雑誌の人はちゃんと数人でやってきて、撮影の際には一言一言断っていた。梨乃のようにフリーで一人でやってきて、まわりの許可もなくパシャパシャ写真を撮ることなどなかった。
「失礼」
それでもお構いなしに、それだけ言うと、梨乃は写真を撮り続ける。あつかましいにもほどがあると思った女将だが、さすがはお客様相手ということで、その場で言及することはしなかった。
確かにあつかましい客であるが、明らかにマスコミに関係のありそうな女性である。下手な態度を取って、ロクでもない記事を書かれてはたまらない。
「お客様ですから、ご丁寧な対応を」
と、他の従業員に話しながら、自分にも言い聞かせていた。
しかし、部屋に入ってサングラスを取ると、その目はそれほど鋭いものではない。穏やかな視線で、縁側から見える景色を目を輝かせて見るところは、他の客と変わらない。女将も少し安心したようだ。
「ここのことはどこでお聞きになったのですか?」
「私が時々出入りしている雑誌社なんですよ。そこで少し聞いていたんですが、私はフリーのルポライターなので、いつも当てのない旅をしています。今日ここに来たのも、近くまで来ていたので、ここのことは昨日思い出して、急遽予約させていただきました」
そういえば、彼女の予約は昨日ということになっていた。時期的にそれほど客の多い時期ではないので、昨日の予約でも十分だったわけだ。
――今回は、作家の先生がリフレッシュにお越しになっているということもあり、執筆業の方が二人来られているというのも、ただの偶然なのかしらね――
と女将は考えたが、もちろん、その作家というのは達也のことである。
達也は。ここに宿泊して三日目になっていた。一週間の滞在であるから、まだ半分にも満たなかった。
達也は、静かな客だった。あまりフロントにいろいろいうこともなく、時々表を散策する時に寄る程度で、食事をしている時も静かなものだ。
食事の時に、このあたりの名所を聞くくらいのことはあっただろうが、女将の耳にそのことが入ることもなかった。一人旅の客というのは、却って気を遣うものだが、相手が作家としっかりとした職業であるので、あまり気にしていない。しかも滞在は一週間、まさか一週間の間に自殺を考えるということもないだろう。
この宿で、今までに自殺者を出したことはなかったが、一人旅の人にはそれなりに気を遣うのは当たり前のことだった。先日近くの温泉宿で、心中事件があり、その時は女性一人が助かって、男性は亡くなってしまっていた。不幸中の幸いとも言えるが、女将個人の心境とすれば、生き残った女性のこれからを考えると、胸が痛まずにはいられない。
「自殺や心中事件は、絶対に起こしてはいけません」
女将は、毎朝の訓示で、このことだけは欠かしたことはない。それほど気にしているということである。
女性のルポライターは、そのことを知っているのだろうか?
「お客様はどのような記事をお書きになっているんですか?」
「私は、風景や土地の風俗などを取材するのが多いわね。あまり人間関係などのドロドロしたのって苦手なんですよ」
そういうと、はにかんで見せた。その表情には、玄関で感じたあつかましい雰囲気が一切なく、普通の女の子の言葉にしか見えなかった。
作品名:短編集107(過去作品) 作家名:森本晃次