心理の共鳴
「早速ですが、それまでまったくモスキート音を感じていなかったはずのあなたが、どうして急に苦しみ出したのですか?」
と門倉が聞くと、
「それが私にも分からないんですよ。何かモスキート音を感じたような気がした。でもその瞬間、何が起こったのか、急に吐き気と呼吸困難に襲われたんですよ。確か私が学生たちを表に出そうと躍起になっていた時です」
「学生たちは動くことはできたんですね?」
「ええ、きつそうにはしていましたが、普通に身体を動かしたり、私のいうことを理解して素直に行動していました。それでもつらそうな身体を引きづるようにして表に出た学生を見届けた瞬間でした。急に貧血でも起こしたのではないかと思うような吐き気と息苦しさが襲ってきたんです。これは今から思えばですが、モスキート音で苦しんでいる学生とは種類の違うものではないかと思ったんです。急に鼻を突くような強い匂いを感じたんです。硫黄のような毒の匂いではありませんでした。まるでアンモニアのようなどちらかというと、花を刺激する匂いです。その臭いが頭に伝わっていくのが分かりました。でも、私が意識できたのはそこまでです。まっすぐに前を向いていたんですが、今度は身体が動かなくなって、前にも後ろにも進めなくなったんです。何かにしがみついた気もしましたが、しがみついたとしても力が入らないので、そのまま倒れこみました。そこからの記憶はまったくありません。気が付けば病院のベッドで目が覚めたというわけです。どうやら集中治療室にいたようで、口や鼻には、酸素マスクが取り付けられ、腕には細菌シールドに覆われた実に仰々しい雰囲気の中で目を覚ましたんです。すぐに先生がやってきて、脈を図ったり瞳孔を見たりしていて、『よし、もう大丈夫だ』と言っていたのを聞いて、私が結構危ないところにいたのではないかということを悟った次第です。だから、それから少しして普通の個室に戻ってから、やっと事件について他の学生や大学関係者の方からお話が伺えたというわけです」
と教授は大まかな話をしてくれた。
これが教授の知っていることを時系列で並べた状況なのではないかと思った門倉は、
「本当に大変だったんですね。お察しいたします」
と言った。
入院しているとは聞いていたが、ここまで大変なことだったとは思ってもいなかったので、正直ショックでもある。
逆にそういう意味で、この事件をいくら死者が出ていないとはいえ、単純な事件としてうやむやにしてはいけないと思った。教授の場合は一歩間違えれば死んでいたかも知れないし、何よりも教授以外でも、直接音を使って脳に刺激を与えるなどという犯罪は。一歩間違えると、死人はおろか、植物状態の人間を作り出してしまうという危険性もある。植物状態はまわりの人の人生を奪ってしまうほとのもので、殺人などよりも、よほど重罪ではないかと思った。やはりこの事件が犯罪であれば、黙って見過ごすわけにはいかないと門倉刑事は考えた。
「ところで先生は先ほど話していた聞き違いの話をネットか何かに掲載されたことはありましたか?」
「いいえ、そんなことはしませんが。何か類似の記事でもあったんですか?」
「ええ、その話題が記事になっていました。でも、よく考えてみると、同じような聞き違いは結構な人がしているのだろうから、教授以外にも同じことを感じて、ネットに書き込んだ人がいたとしても不思議はありませんからね」
「そうですね。私も生徒たちの前で一つの話題提供として話をしたくらいですから、人によっては自分だけで収めておくことに我慢ができなくなった人がいても、別に不思議ではありません」
と言って教授は笑った。
「でも……」
と教授は少し訝しがるように、
「あの時の言葉が犯人に何かのヒントを与えたのだとすれば、責任を感じないわけにはいきませんね」
と教授がいうと。
「いえ、それは仕方がないことだと思います。教授がそのことで気を病んでおられるとすれば、他にももっと反省しないといけない人はたくさんいるでしょう。もちろん、このことに限らずにですけどね」
と門倉刑事は教授を庇うように言った。
しかし、教授の危惧はまったくのでたらめでもないだろう。この事件に何らかの犯人がいるとして、モスキート音を利用したのだとすれば、かなりの高い確率でこの時の教授の言葉が利用されたと言っても過言ではないだろう。そう思うと、門倉刑事も、
――人のことは言えないものだ――
と感じた。
急展開
教授との話の中で改めて分かったということも、何か他の新たな発見があったわけでもなく、事実関係の確認程度に終わってしまったことは、門倉刑事を少し落胆された。しかし、これで教授自身がこの事件の首謀者ではないことは分かった気がする。ただ、犯人が他にいて、その動機という意味で教授がまったく関係ないところにいるということはないだろうと思われた。
――やはり教授は重要人物の一人――
として考えなければいけない相手であった。
教授の事情聴取というか、半分は世間話に終わったのだが、この時間はもっと長かったように思っていたが、実際には一時間も経っていなかった。普段からあまり重要なことが分かったわけではない時ほど、結構時間が長かったと思っていても、実際にはすぐだったということは結構頻繁に起こっていたことだった。
「じゃあ、そろそろお暇しましょうかね?」
といって門倉刑事が腰をあげようとすると、
「何か思い出したことがあったら、今度はこちらから赴きますよ」
と教授が言った。
完全に打ち解けてしまっているからなのか、門倉刑事は他の人にいうような決まり文句をほとんど言わなかった。それだけ教授の立場も人間性も理解しているつもりになっていて、言わなくてもいいことは、言わないようにしていた。
教授の方も門倉刑事が帰ろうとしているのが分かると寂しそうだった。
「いつも学生ばかりを相手にしていると、学生以外の人とも話をしたくなるものでね、新鮮な感じがするんですよ。どうしても学生というと、自分の子供のようにしか思えなくて、相手はそこまで思っていないかも知れないけど、こんなにたくさんの子供がいると思うと、変な気分になってくるもので、しかもそれが慣れてくると、当たり前のようになってきて、一番自分がいつも一番前で一番のトップだと思っていると、気が休まる感じもしないですよ。これって結構きついものですよ」
と教授は言った。
門倉刑事も下から慕われてはいるが、そんな時、いつも自分が矢面に立って、上からのパイプ役として君臨していることを無意識の疲れとして感じることがあるのを自覚していた。
もっと上に上がればさらなる上と下からの板挟みに悩まされるに違いないと思うと、神経的な疲れが募ってくるのを感じた。
――しょうがないよな――
と思っているが、どう咀嚼すればいいのだろう。
「ちょっと寂しいですよ」
と、最後に教授は苦笑いをしながら呟くように言った。
その言葉を聞いて、門倉はそれが冗談には聞こえなかったのだが、それは声のトーンが低かったからだ。
――私が知っている声のトーンで、このイメージで真剣でない人は今までにはいなかった――