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短編集106(過去作品)

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人魂



                人魂


「こら、桜井。ボンヤリしていると怪我するぞ」
 今日も課長の声が響く。ここは生鮮加工を生業とする「辰巳産業」の加工場である。今年大学を卒業し、晴れて就職したのが、この辰巳産業の宣伝部だった。
 この男、桜井慎吾は大学ではそれなりの成績を収め、大企業とまでは行かないが、地元では大手の会社に就職できたのだから、まずまずのコースではなかろうか。成績が彼よりも上で、就職できなかった連中がいることを考えると、ある意味幸運だったのかも知れない。
 大学時代、体育会系のクラブに所属していたわけではない。不定期に参加できるサークルに所属していた程度で、これといった資格もないので、就職はなかなか難しいのではないかと本人も感じていた。だが、それでもうまく就職できたのは、面接官との相性がよかったのかも知れない。
 あくまでもそこまでは桜井の考えで、実際のところは分からない。就職すること自体に違和感のあった桜井は、結構臆病者でもあった。
――今までの楽しかった時間が、今度は拘束される時間に変わってしまうんだ。俺に耐えられるだろうか――
 と言った不安である。
 小さい頃から先々を読む癖のついている桜井は、いい方に読めばいいのだが、どうしても悪い方へ悪い方へと思案が巡る。
「楽しいことばかり考えていて、奈落の底に落とされるよりも、悪いことを考えていてそれほどでもない方がよっぽどいい」
 と嘯いていたほどだ。しかし、
「そんな取り越し苦労をしていると、疲れるばかりだぞ。自然に構えていればいいんだ」
 と助言されたことがあったが、
「自然に構えていられるくらいなら苦労はないよ」
 と反論を繰り返していた。
 取り越し苦労をする人間は、その反面寂しがり屋でもある。絶えず誰かがそばにいることを感じていないと辛くなる。それは男でも女でもどちらでもよかった。
 男性であれば、一緒に女性の話をする。それが楽しかったりするもので、お互いの好みの女性についてや、付き合い方についての意見交換は、あっという間に時間をさらってくれ、若い間の時間を有意義なものにしてくれる。
 就職してからの時間というのは、その時々ではなかなか過ぎてくれないが、長い目で見ればあっという間である。
 工場で働いていると、時計を絶えず見ている。
――そろそろ三十分は経っただろう――
 などと考えていると、まだ五分ほどしか経っていない。昼休みの時間までの何と長いことだろう。
 昼休みから後も大変である。睡魔が自然に襲ってくるのは、
――腹がいっぱいになれば、眠くなる――
 という自己暗示に掛かっているからで、自己暗示だと思ってしまっているだけにどうしようもない。
 それでも三時以降になると今度は目が冴えてきて、夕方になる頃にやっと正常に戻るといったところである。夕方の六時には仕事が終わるので、そこから先は自分の時間であった。
 その時間が一番嬉しい時間である。寝るまでの時間をいかに楽しく使うか。考えるだけで楽しくなってくる。
 同期入社の中に気の合う人はいないので、なかなか仕事が終わってから一緒に過ごそうと思う人はいない。一度誘われて一緒に呑みに行ったが、結局愚痴に付き合っただけで、自分からの発言をできる状態ではなかった。
「うん、そうだよね」
 相槌を打つだけで精一杯だったのだ。
 そんなやつと、もう二度と二人きりで飲みたいとは思わない。話が合うような気はしないし、どう考えても彼とは平行線のようだった。お互いに言いたいことを話し始めれば、収拾がつかなくなるに違いなかった。
 元々がのんびりした性格なので、人の愚痴を聞いてやることは嫌いではなかった。特に学生時代などは、愚痴の聞き役に回ることが多く、そこが相手に安心感を持たせているゆえんだったのかも知れない。
――それでもいいんだ――
 学生時代だからそれでいいと思ったのか、相手とは平行線だと思ったから、会社に入って相手を選んだのかハッキリとは分からない、だが、少なくとも学生時代は気持ちに余裕があったことは事実で、それがのんびりした性格に見られたのかも知れない。
――気持ちに余裕のあるところからのんびりした性格に見られるのであれば、それはそれでいいことだ――
 と思っていたのも事実である。
 就職してからの毎日は退屈だった。特に仕事をしている時間は覚えることはたくさんあるのだろうが、決まった作業の繰り返しである。
 辰巳産業は、最初の半年は研修期間で、どこの部署に配属されようと、一通りのセクションを体験させられる。入ってすぐは現場研修ということで、皆白衣にギャザーキャップをかぶって、工場のコンベアの前に立っていた。
 白いキャップに白いマスク、中に入っていれば誰が誰だか分からない。そんな雰囲気が今までと違った雰囲気を作り出し、さらに孤独感を煽るのだった。
 密室でもある室内は、空気が薄く感じられた。時々立ちくらみを起こしそうになるのを必死に堪えていると、時間がなかなか経ってくれない。苛立ちだけが過ぎていき、時間だけが自分と一緒に取り残される。そんなことばかり考えていた。
 仕事が終わってから楽しむのは、その反動もあるだろう。そのためか就寝時間が遅くなり、昼間睡魔に襲われる。悪循環であった。
 夜の街は初めてではなかった。大学時代にも友達と何度か遊びに出ていたが、一人で出るのは初めてだった。
 風俗に行くこともあったが、それよりも喫茶店やバーのようなところでゆっくりする方が、今の桜井には似合っている。特に一人で下手なところを出歩かない方がいいに決まっているし、それほど給料も貰っていない。
 最初は会社の近くにある喫茶店だった。
 夜の十時過ぎまで開いているので、夕食を食べてから、十分にゆっくりすることができる。
 喫茶店に来ると、必ず本を持っていくようにしている。
――喫茶店と読書――
 この組み合わせは、大学時代から変わっていない楽しみ方だった。
 読書の合間に、店員の女の子と話をしたり雑誌を読んだりする、目的は読書にあった。
 好きな本のジャンルが決まっているわけではない。恋愛モノも読むし、ミステリーも読む。その時々の精神状態によって、読む本が変わってくるし、読んでいる本によって、逆に精神状態が変わってくることもある。読書とは、かくいう面白いものである。
 ミステリーを読んでいると、時間があっという間である。
――面白いようにスラスラ読めるぞ――
 まるで速読ができるようになったかのような錯覚に陥るが実際には自分で感じているよりもはるかに時間が過ぎているのだ。
「もうこんな時間か」
 と何度感じたことか。
 ミステリーを読んでいるうちに、
――時間が早く経ってしまうんだ――
 という意識の元に読んでいるのに、それでも自分の感覚よりもさらに時間が経っている。まるでいたちごっこのようだ。
 しかし、恋愛小説を読んでいるとそうは行かない。
 最初、恋愛小説というと、ラブロマンスを思い浮かべていたが、結構アブノーマルな世界を描いた、いわゆる
――えげつない作品――
作品名:短編集106(過去作品) 作家名:森本晃次