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短編集106(過去作品)

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 が少なくない。読んでいて思わず胸が締め付けられるような思いがする小説もあり、経験者が読めばどう感じるのか聞いてみたいほどだった。
 不倫や許されない愛などの小説を読んでいると、自分に経験がないだけに、
――こんなドロドロした雰囲気を味わいたくはない――
 と思うのだが、その反面、小説だという意識が働くのか、
――羨ましい――
 という気持ちにもなっている。
 読み込んでいく中で、それらの気持ちが交互に強くなり、気がつけば小説の中に入り込んでいる。それこそ作者の「思う壺」なのかも知れない。まんまと策略に嵌ってしまったようで癪ではあるが、それが読書の醍醐味であれば、それもよかろう。あくまでもフィクションなのだから。
 不倫までは思い浮かべないまでも、社内恋愛くらいは思い浮かべていた。学生時代に同じクラスの女の子と付き合ったことのない桜井は、
――一度でいいから秘密の恋愛というものをしてみたい――
 と思っていた。
 社内恋愛というのは、大抵は女性の方が秘密にしたがるもの。桜井自身は、自分が社内恋愛で、他の人に知られることは差し障りがないと思っていた。まわりがそれなりに気を遣ってくれるからだと思っていたからである。
 喫茶店で本を読んでいると、違う人間になったような気がする。本当であれば、学生時代に戻ったような気分というべきなのだろうが、それも忘れてしまうほど、遠い記憶のように思えていた。
 時間の流れはあっという間なのだが、記憶の一点を思い出そうとすると、すべてが遠い。
それだけ、学生時代とはまったく違う世界に生きている感覚になっているのだ。
 学生時代の友達に、不倫をしているやつがいた。普段は普通の付き合いだったので意識していなかったのだが、時々見せる表情に落ち着きを感じることがあり、
――人妻と付き合っていると、あんな顔になることがあるのかな――
 と感じたものだ。
 自分の中にある後ろめたさ、後ろめたさがあるにも関わらず、どうしようもない気持ちに対するジレンマ、そんな葛藤が渦巻いていたに違いない。
 心の中での葛藤が、どちらにより強く働いているかということは、その時々で違っていただろう。むしろ、瞬間瞬間で違っていたのかも知れない。表から見ているだけではその心の内を計り汁ことはできなかった。
 そんなことを思い出しながら恋愛小説を読んでいる。
 読みながら、思わず目を背けてしまうような描写があったりする。恋愛小説といえば、淫靡な描写は不可欠であろう。淫靡な描写を目的に読んでいる読者だっているはずだ。桜井にはそれが辛い。淫靡な雰囲気は、清潔なものしか知らなかったからだ。
 興味がないわけではない。しかも小説の中のフィクションではないか、それほど意識する必要もあるまい。
 桜井の中に不倫願望があった。だからこそ淫靡な描写を生々しく感じてしまい、思わず目を逸らしてしまっていたのだろう。そのことに気付き始めたのは、ごく最近になってからだ。
 小説を読むまでは、不倫などというのはまったく自分には関係ないと思っていた。しかし、最近読む恋愛小説に出てくる主人公は、得てして共感できる考えを持った人が多い。だからこそ、作者を特定して読んでいるのだが、必ず主人公は不倫に巻き込まれてしまうのだ。
 その作家の作風は、ほとんどパターンが決まっている。
 主人公はいつもボンヤリとした態度を表に出しているのだが、その内面では絶えず何かを期待しながら生活をしている。
 さすがに小説だと思えるのはそこからで、主人公の想像や期待をそのままにストーリーが展開していくのである。
――こんなことってあるのかな――
 実際にあるはずはないと思うからこそ、小説として楽しめるし、他人事として読みながら、主人公に自分を置き換えるという楽しみを与えられる。それが、読書の醍醐味でもあった。
「桜井さん、いつも真剣に本を読んでいるけど、いったい何を読んでいるんですか?」
 喫茶店で馴染みになると、店の女の子から声を掛けられることも多くなった。
 最初は自分から声を掛けたものだ。
――そろそろ常連の仲間入りだろう――
 喫茶店でどれくらい経てば常連になれるという感覚は大体知っているつもりだった。大学時代に、キャンパスの周りには喫茶店がいっぱいあり、講義の合間などに、よく喫茶店に寄っては、友達と話をしていたものだ。
 二年生の頃までは、同じ友達を一緒に行けるのだが、三年生になれば、皆それぞれ行動が変わってくる、理系の学部に所属している連中は、実験のレポートなどで、研究室に篭りっきりになってしまうし、文型の学生はアルバイトなどをして、青春を謳歌していた。
 桜井もアルバイトはしていたが、それも学校で授業のない日に一日まるまるのアルバイトをしていたので、学校に来る時は、時間が空くのだ。そんな時は喫茶店に寄っていた。
 馴染みの喫茶店がいくつかあったが、次第に搾られてくる。店員と会話ができるところに行くのは自然であろう。
 あまり広い喫茶店はパスだった。広いところでは開放感がありすぎて、会話にならないし、店員は忙しい。カウンターがあって、テーブルが五つほどという喫茶店がちょうどいい広さかも知れない。
 話の内容もその時々で違う。最初こそ桜井から話すことが多かったが、途中からは、店の女の子が話題を提供してくれるようになる。そこまで来ればしめたものだ。その時から、
――俺はこの店の常連になったんだ――
 と確信が持てるのだった。
 桜井は働き出して馴染みになった喫茶店でも、店の女の子を相手に話すことが多い。
 最初に読書をして、一段落すると話し始める。
 そのうちに相手が話しかけてもらうのを待っているんじゃないかなどと思ってしまうこともあるが、それこそ思い込みかも知れない。話しをした後はまた読書を続けるのだが、それを見ていて店の女の子から、
「桜井さんって、どこか絵になる人なんですね」
 と言われたことがあり、まんざらでもなかった。
 実は、絵になる男といわれることを目指していたのだ。何を指して絵になる男という表現になるのか分からない。何しろあまりにも漠然とした言い方ではないか。だからこそ、――自分で感じるものではないんだ。人から言われてこそ初めて感じていいことではないだろうか――
 と思えるのだった。
――絵になる男とはなんだろう――
 普段、仕事をしている時は、覚えなければならないことが多いため、そこまで考えられない。一生懸命に覚えようとしているのだが、どうやら他の人から見ると、
「お前はボンヤリしすぎているぞ。気をつけないと怪我をするぞ」
 と言われることになるのだ。
 だが、本人はそんな意識は毛頭ない。頭の中にあるのは、絵になる男を表に醸し出したいという意識だった。別に会社の中でそんな雰囲気を醸し出す必要もないのだろうが、これが無意識に感じることなので、人から指摘されないと、ボンヤリしていることすら分からなかった。
「でも、桜井さんって、どこかさりげないところもあるので、とらえどころがないように思えるわ」
 という女性社員がいた。それは、喫茶店で本を読んでいるところを見て、
「絵になる雰囲気」
作品名:短編集106(過去作品) 作家名:森本晃次