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短編集106(過去作品)

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 お互いに一歩も譲らない。最初の会話は気を遣っているのだろうが、そこから次第に声が荒げていき、喧騒的な雰囲気がまわりを包む。
 これではせっかく気を遣っているはずの行為が相手への押し付けになってしまう。見ていて気持ちのいいものではない。
 押し付けというよりも、わがままにも見えてくる。まわりがまったく見えていない状態で、どんな目で自分たちが見られているかなどお構いなしである。
 こんな状態を誰が気を遣っているなどと思うだろう。少年であったにも関わらず、人に気を遣うことが嫌いになったのは当然というものではないだろうか。
 いや、少年だからこそ余計に気になったのかも知れない。大人の世界を冷静な目で見れるのは、案外子供だったりする。その気持ちが成長とともにトラウマとなってしまうことも往々にしてあるだろう。まさしくそのトラウマは、辰則の心の奥に芽生えていた。
 それからである。辰則は余計な気を遣っている人を見ると、
――わざとらしい――
 と露骨な嫌悪を感じるようになった。
 紳士的な男性は、そんなわざとらしさはない。だからこそ紳士的な男性を目指しているつもりだった。
 だが、それが本当に間違いではないかと時々考えることがあった。成長期というものは、どんなに確信を持っていたとしても、自信を持つことができない。そのために人に確認するくせがついてしまったとも言えるだろう。
 大人になるにつれて、どうして自分が紳士的な男性を目指しているか次第に忘れていくようだった。藍子に尋ねたことへの返事を聞いて、子供の頃に感じたことを思い出しながら、
――まったくその通りだ――
 と感じるようになっていた。
 その日は、久しぶりに饒舌だった。きっと藍子が自分の忘れていたことを思い出させてくれたからだろう。紳士的と言われて嬉しかったのだが、それだけではなかったかも知れない。そこに順子のことがあったとすれば不謹慎だったに違いないが、とにかくその日の辰則は上機嫌だった。
 結構本を読んでいるので、会話が始まると話題に事欠くことはない。
「岩佐さんって結構博学なんですね」
「いやあ、そうでもないよ。本を読むのが好きなので、ちょっとした雑学くらいは話できるよ」
 謙遜のつもりだったが、彼女はどう感じただろう。人によっては自慢への照れ隠しに見えなくもない。だが、その時の辰則はそれでよかった。会話が弾むことは悪いことではない。
――こんな調子で、さっきの彼女とも会話できればいいな――
 と感じながら、喫茶「エーデルワイス」を出た。
 すっかり夜の帳は下りていて、珍しく星が気になっていた。
 アルコールが入って酔いが覚める前であれば、夜空の星を気にすることもよくあった。表を歩く時、あまり上を見ながら歩くくせのない辰則は、結構足元を気にしている。
――何が落ちているか分からないからな――
 というのが理由であるが、どうも下を向いて歩く方が、足元から築き上げていくという意識を強く持っている辰則らしい。
 足元が安定していないと、すぐにぐらぐらして浮き足立ってしまう。紳士的な考え方は、すべて足元が安定しているからこそできるものだと思っているのである。
――たまには空も見ないとな――
 空を見るということは、気持ちが大きくなっている証拠だ。
 酔っている時は当然気持ちが大きくなっている。酔っていない時でも空を見上げるのは、気持ちの中に余裕がある時である。
 気持ちに余裕がある時というのは、絶えず前を向いていたいという気持ちの裏返しではないかと、空を見上げながら感じていた。遠近感がまともに取れない空を見ていると、自分がどれほど小さい人間であるかを再認識させられる。それだけに普段は空を見たくないと思っているのだろうと感じる。
――紳士的でありたいと思っている時こそ、空を見るといいのかも知れないな――
 普段考えないことを、その日は次々に思い浮かべる。そこに何があるのか分からないが、とにかく前を向くことだけを心がけていたかった。
――駅で気分が悪かった彼女、初めて見かけるような気がしないのはなぜだろう――
 以前から知り合いだったのではないかと感じることは今までにも何度かあったが、それは時間の経過とともに、思い出す気持ちが増すからだ。それだけ忘れていくスピードも速いということだが、忘れたくないという思いが強ければ強いほど、長い間知っているように感じてしまうのだが、それも仕方がないことだろう。
 決して悪いことではない。
 順子は辰則のことを紳士的だと感じていた。そんな紳士的な辰則に順子がほれてしまったのは間違いのないことだった。そのことはウスウスではあるが、辰則も分かっている。分かっているが、分かっていることを表に出そうとは思わない。それでも表に出てしまうように正直なところがあるからだ。
 順子葉人に逆らうことのできない性格だった。
 従順と言える性格なのだろうが、それよりも自分に自信がないと言った方が正解かも知れない。
 順子は母親の影響を大いに受けていた。
 母親も物静かな女性で、辰則も一度紹介されたことがあったが、ほとんど口を利くことはなかった。
――ずっと何かに怯えているようだな――
 と感じたほどで、母親に遭うまでは分からなかったが、順子にも同じような怯えがあるのが見えた。
 辰則の前ではそれほど怯えはないのだが、他の人の前では明らかに態度が違う。怯えが表面に現われているのだ。
 そんな順子の態度を知ると、辰則の中に順子のいとおしさを感じた。いとおしくてたまらなくなるのを感じると、今度はそれ以外のイメージが失せてしまった。
 そんな心変わりを順子も敏感に感じたことだろう。
――優しすぎるわ――
 順子は辰則の紳士的なところを好きになったのだ。確かに優しいというのも紳士的なところがある証拠であろう。しかし、順子にとって、相手を好きになった紳士的な態度は優しさではない。むしろ毅然とした態度で誰にでも変わることのない雰囲気だった。
 まるで腫れ物にでも触るような態度を見せられては、却って恐縮してしまって、恋人という意識ではなくなってしまう。次第に順子は耐えられなくなってくる。
――私は人に構われていないと耐えられない性格なのかも知れないわ――
 そんな時、順子に猛烈にアタックしてくる男性がいた。
 辰則と知り合った頃と時期が前後しているので、最初は相手にしなかったが、辰則の態度に疑問を持ち始めると、次第に気になってくる。
 名前を昭信という。彼はそれほど目立った人ではなく、どこにでもいるような人で、性格的にもこれといって特筆すべきところはない。
 ただ、順子に対してだけは積極的にアプローチしてくる。どうしてなのか分からなかった。
 一度話を聞いてみたことがある。
「私のどこがいいの?」
「実は前から意識はしていたんだけど、この間から、あなたが綺麗に見えて仕方がなくなったんですよ。まるで別人になったようで」
 彼の言う
「この間」
 というのは、どうやら辰則と知り合った頃のことのようだ。
「女性って、人を好きになると綺麗になるっていうじゃないですか。だからあなたが他に好きな人ができたんじゃないかと思って、それで気になってしまって」
作品名:短編集106(過去作品) 作家名:森本晃次