短編集106(過去作品)
馴染みの店もできた。最近は減ってきている喫茶店も、まだ残っていたりする。街に出ればカフェテリア系の店が多く、それも悪くはないのだが、一人でゆっくりくつろぐには、やはり喫茶店がよかった。
何よりも常連になれるからだ。店の人から顔を覚えてもらい、ゆっくりとした時間を常連同士で共有しあう。それが喫茶店の醍醐味ではないだろうか。
喫茶店の常連にはさまざまな人がいる。時間帯によって、常連が違うようだ。早朝や日が暮れる頃はサラリーマン、午前中は学生、午後の昼下がりは主婦と、ハッキリ別れている。
店の名前は、喫茶「エーデルワイス」という。赤いエプロンの女の子で一人気になる女性がいるが、彼氏がいると最初から聞いていたので、意識は深くない。その日も営業から帰って喫茶「エーデルワイス」へ行くことを考えて電車に乗っていた。
さすがにラッシュアワー、中に入ると窒息しそうなので、一番最後に乗り込み、窓に背中を当てるのが楽だと考えて、乗り込んだ。
それほど背が低い方ではないので、端にいると、ある程度車内を見渡すことができる。密室での気分転換にはもってこいだと思っていた。空気が次第に湿気を帯び、濁ってくるのを感じた。
人ごみで出てくる汗ほど気持ち悪いものはない。何とも言えず、早く駅に着いてくれないかという思いでいながら車内を見渡していると、一人の女性が俯き加減で何か耐えているのが見えた。
彼女も人ごみの空気に耐えているのかと思ったが、時折表情に変化が見られた。明らかに嫌がっているのだが、それだけではないように思える。
その表情には怯えが浮かび、まわりの視線を意識しているようだ。彼女が意識しているほどまわりは彼女への意識がないにも関わらずである。
――何をそんなに意識しているのだろう――
時々口をだらしなく開けているようだが、息苦しさからの呼吸ではない。耐え切れずに漏れる声を抑えているように思える。その表情に辰則はドキっとしたものを感じずにはいられなかった。
――大人の淫靡な表情が見え隠れしている――
じっと彼女を見つめていると、いつもなら長く感じるはずの車内での時間があっという間に過ぎていた。嫌なはずの時間が集中することで知らず知らずに楽しんでいたようだ。
次の駅に着くと、どっと乗客が扉の外に押し出される。それは降りる降りないに関わらず、ホームに出ないことには、中の乗客が降りられないからだ。自然現象の一種に見えている。
彼女も類に漏れず表に押し出された。その表情に安堵の色が浮き出されていたが、じっと彼女を見つめていた辰則は、その場に今にも倒れてしまいそうな彼女に気付いていた。
「危ない」
少し距離があったが、人を掻き分けるように彼女の前に出ると、倒れ掛かっている彼女の肩を抱いて助け起こしたのだ。まわりにいる人は、誰も気付かなかったように、足早に改札へと急いでいる。彼女を抱きかかえたまま、そばにあるベンチに腰掛けると、ぐったりしている彼女を横から見ていて、いろいろなことが頭を巡った。
「うーん」
何とか意識が戻りかけているところへ、
「どうしたんですか? 顔色が優れませんよ。病院へお連れしましょうか?」
と訊ねると、
「いえ、大丈夫です。少し気持ち悪いだけですから、休んでいればよくなると思います。
「そうですか、では私もご一緒しましょう」
「ありがとうございます」
そこまで言うのがその時の彼女はやっとだったに違いない。
これが順子だった。額からは玉のような汗が吹き出していて、明らかに状況はよいものではなかった。顔色も真っ青で、下を向いたまま顔を上げることができずにいる。
――痴漢に遭ったのかも知れないな――
と感じた。身動きすら取れないほどの車内で、誰にも助けることもできず、一人で耐えていた。辰則には少し想像できないが、こういう時の女性は、まわりに助けを求めることを嫌う。大声を出して恥ずかしい思いをするのは自分だということを分かっているからである。たとえ大声を出したとしても、もし助けてくれる人がいなければ、恥ずかしいだけで終わってしまう。彼女はそれを考えたのではないだろうか。
その証拠に気分が悪い彼女を誰も気にしていないではないか。電車を降りる時、少なくとも何人かは彼女の異変に気付いて視線を送っていた。横目に見ただけと言ってもいいが、その視線は決して暖かいものではない。却って冷ややかであった。冷静な視線ともまったく違うものだ。
彼女がそれに気付いているかどうかは分からないが、気付いていればゾッとしていたに違いない。
しばらくして、立ち上がった彼女を抱きかかえるようにして歩き始めたが、
「もう大丈夫です」
と数歩歩いたところで、辰則の手を丁重に払いのけた。下手に大袈裟な態度を取ると、駅員に不審に思われるに違いないと思ったからだろう。きっと彼女は、他人の目を必要以上に意識するタイプの女性に違いない。
「少しどこかでゆっくりして行きますか?」
「いえ、大丈夫です。今日はどうもありがとうございました」
深々と頭を下げてお礼を述べたかと思うと、踵を返して歩いていく。背筋をピンと伸ばして歩く後姿には凛々しさが感じられ、ある程度プライドの高い女性を思わせた。
――かなりショックだったんだろうな――
プライドをかなり傷つけられたに違いない。普段の彼女のキャリアウーマンぶりが目に浮かぶようだった。
何となくまた会えるような予感を持って、彼女の余韻に浸りながら喫茶「エーデルワイス」へと向った。
店は相変わらずの雰囲気だが、その日の辰則は自分の中での雰囲気の違いを感じていた。
「いらっしゃい」
いつもの声が響く、今日も赤いエプロンで、カウンターから迎えてくれた彼女、名前は藍子という。
「ナポリタンとキリマンジャロを貰おうかな?」
「はい、かしこまりました」
その日の店内には、スパゲティの匂いが漂っていた。きっと誰かが注文したのだろう。食事を何にしようか考えていたが、入ってすぐに感じたスパゲティの匂いでメニューはすぐに決まった。
「岩佐さんって、紳士的なところがおありになるから結構女性にもてるでしょう?」
「いや、そんなことはないよ。どうして紳士的なところがあるって感じるんだい?」
辰則は時々人から紳士的だと言われる。自分も紳士的な男性になりたいと心がけているつもりなので、
「紳士的なところがある」
と言われれば必ず確認してみたくなる。それが真理というものかも知れない。
「うーん、無意識に人に気を遣っているところを感じるんですよ。意識的に気を遣っている人というのは、人情に厚く見えるんですけど、無意識に気を遣っている人というのは、人情というよりも紳士的なところが滲み出てくるんじゃないかしら」
なるほど、それも一理ある。
しかし、少なくとも人に気を遣っていることを意識していないのは事実だ。
元々人に気を遣うことはあまり好きではない。
子供の頃だっただろうか、母親を見ていてそう感じた。母親だけではなく、近所のおばさんたちの井戸端会議などを見ていて、喫茶店での会計の時など、
「私が払いますよ」
「いえ、ここは私が払います」
作品名:短編集106(過去作品) 作家名:森本晃次