短編集106(過去作品)
それだけに、成長期の末期で、一気に遅れを取り戻した。短い間に成長が進んだことで、他の人にはない感情が生まれていたかも知れない。
タイムマシンの本を読んだことがあるが、一気に時間を飛び越えると、その間の意識は希薄なものになると書いてあった。ちょうど本を読んだのが成長期だったので、
――偶然にしても、救われたような気がするな――
と感じたことでよく覚えている。
子供の頃の意識、そして成長期の意識、それが初めて女性を抱いた時によみがえってきた。
――初めてのような気がしないな――
覚めたイメージを持った。それが、どこか物足りなさをイメージとして与えられた証拠なのかも知れない。
――成長期に女性の身体を知っていたとすれば、どんな自分になっていただろう――
人生が変わっていたかも知れない。
ひょっとすれば、もう一人の自分の存在を知らずに来たかも知れないとも感じる。もう一人の自分の存在を知ることは、目の前にある鏡の存在を認識することかも知れないが、思わず後ろを振り返ってしまうのはなぜだろう? 後ろにも鏡があるかも知れないと思って振り返ってしまうように思えてならない。
明日香とずっと付き合っていけるように思っていたが、別れは突然だった。
里美の時と違って、嫌になったのは、辰則の方だった。それまでに感じていた明日香の雰囲気に疑問を感じ始めたからだ。
快活だった明日香が少しずつ言葉が少なめになっていった。目を見てハキハキと話す女性だったのに、俯き加減で、なるべく視線を合わさないようにしている。それを気付かれないようにしないといけないと思ってか、時々顔を上げるのだが、それがあからさまに感じられた。
――あからさまな態度に気付かないとでも思っているのかな――
明日香は勘が鋭い女性である。どこまでの態度を取れば辰則が分かるかということくらい理解しているはずである。それでいてなおさら、あからさまな態度を取るということは、あからさまな態度であることを辰則に分からせる意図があると思っていいかも知れない。
――明日香は、自分から嫌われようとしているのかも知れない――
なぜなのか分からなかった。しかし、辰則に興味を失ったのは一目瞭然だ。
それまでであれば、自分に興味を失いかけている女性があれば、何とか自分に引き戻そうと努力をしていたに違いない。だが、明日香に関しては努力をするよりも、自分が一番傷つかずに、楽に別れる方を考えたのだ。それには、自分から嫌になってしまうのが一番よかった。
嫌になったといっても、心底嫌になったわけではない。人を嫌いになるのにもそれなりにエネルギーを必要とするからだ。相手のことを考えること自体嫌になってしまえば、すべてが嫌になるはずだと思っていた。さすがに辰則は、そこまではできなかった。
人を嫌になるのは、親を嫌になることでエネルギーを使った。人を嫌になるということは、嫌になっただけ、何か自分の中で発見するものがなければ釣り合わないと思っている。明日香を嫌になることで何を得ることができるか分からなかったが、成長期の段階では、自分でも想像もつかないことを得ることができると思っているので、心配はしていなかった。
――俺は一体何を得たのだろう――
実際に明日香との別れに、問題はなかった。最初から別れるつもりで、性格を変えただけのことはあったようで、辰則が別れを切り出した時も、素直だった。素直すぎて、
――ひょっとして、俺に未練があるのかな――
と感じるほど、落ち込んでいたように見えたくらいだ。
「俺のことが嫌いになったんだろう? もし、そうだったら理由を聞かせてほしいな」
理由も分からずに別れるのは忍びない。
――明日香が理由を口にすれば、どうしよう――
と思わないでもなかった。明日香がハッキリとした理由を話せば、辰則の方からも理由を言わないわけにはいかないだろう。正直に言うと、明日香を嫌いになった理由がハッキリしているわけではない。
――明日香と傷つかずに別れたいから――
などというのが正当な理由であるはずがない。
明日香の口からは結局理由を聞くことがなかった。明日香が言わないという目算はあったが、付き合い始めた頃の明日香であれば、話していたに違いない。やはり、どこかで心変わりがあったに違いないということを確かめたかったのだ。そして、それが辰則を嫌になった最大の理由であると、辰則自身で感じればいいことだった。とにかく別れの理由を問いただしてみなければ、別れるにしてもシックリ来ないと考えたのだ。これが別れるにともなって一番エネルギーを使わない方法でもあった。
――あまり紳士的な別れ方ではないな――
明日香と付き合っている頃から、
――紳士的なものでなければならない――
と思っていた。相手がどんな女性であっても、辰則は紳士的に振舞う。逆にいえば、紳士的に振舞うことのできない相手であれば。付き合うに値しないとも言えるであろう。辰則の頭の中では、絶えず逆の発想が渦巻いていた。
それが紳士的な男性の考え方だと思っていた。
――表があれば裏がある――
表だけを見ていれば表面だけの薄っぺらな見方しかできず、相手にすぐに見切られてしまう。紳士的な男性とは、相手に簡単に見切られてしまってはいけないというのが定義ではないかと思っている。相手に自分のことを理解させたり、自然と表に表れるものがオーラと呼ばれるものであれば、それが一番紳士的なのであろうと感じているのだ。
だが、明日香と付き合った一年ほどという期間は、辰則の中で短いようで長かった。短いように感じるのは、後になればなるほどハッキリしてくる感覚で、それだけ意識の中で凝縮されているようだった。時系列での記憶とまではいかないが、何かあるたびに明日香に感じたことを思い出すことができるだけ、身近に感じていたに違いない。
明日香に対して別なイメージが湧いてきたことで、別れたことに後悔が薄くなっていった。味気ない気もするが、それも仕方のないことだろう。
順子と知り合った時は、明日香のことを頭から忘れかけている時だった。明日香を思い出そうとすると、一緒に里美まで思い出されるのは、順子と知り合ってからのことである。
営業先からの帰り、その日の電車は混んでいた。
営業先にまわる時間が少し遅れたこともあって、帰りはラッシュの時間に巻き込まれたのだ。会社には遅くなることを見越して、直帰するという連絡を前もって入れておいたので、事務所に戻る必要はない。いつもよりも少し早い時間に電車に乗ることも珍しく、
――さあ、今日はどうしようかな――
と頭をめぐらせていた。
学校を卒業してから収縮した先では、家から通える距離にあったが、一人暮らしを始めた。これからいろいろ覚えなければならないことも多いので、親を意識することを避けたかったのだ。
親も一人暮らしに関しては別に反対はしなかった。ひょっとすると、辰則の方が意識過剰になっているのかも知れない。
一人暮らしをしてみると、これほど楽なものはない。寂しいのではないかという危惧もあったが、それよりも持て余している時間をどのように使うかを考えている方が楽しかった。
作品名:短編集106(過去作品) 作家名:森本晃次