短編集106(過去作品)
そういう意味の退屈ではない。
「あなたが言われた退屈という言葉よ」
「性格的な退屈ということだったのかな?」
「それだけじゃないと思うけど、気持ちが成長しないと、相手には退屈と感じさせるものかも知れないわね」
「性格なんて、そんなに変わるものじゃないよ。特に俺の場合は、まずは相手に自分のことを知ってもらいたいと思うから、すべてを曝け出すようにしているつもりなんだ」
「それが相性をどう左右するかということかも知れないわね。中途半端に終わるかどうかの違いって、そんなところにあるんじゃないかしら」
天井を見つめながら、迫ってきそうな模様に眩しさを感じていた。
明日香との別れは自然だった。必然だったと言ってもいいかも知れない。
就職が機だっただけに別れを切り出す必要もなかった。辰則は就職して、大学のある土地から離れたところに赴任したからである。
その頃には、異性に興味を持ち始めた頃に感じていた焦りのようなものは消えていた。
――一度女性と身体を重ねたことで焦りが消えたのかな――
と感じた。
夢にまで見た女性の身体、そして淫靡な雰囲気、
――なんだ、こんなものか――
と感じたもの事実である。身体は実際に味わってみなければ分からない部分はあったが、淫靡な雰囲気だけは想像していた通りだった。
辰則は、自分で想像力豊かな方だと思っている。絶えず頭の中でいろいろなことを想像していて、考えがイメージを作り上げ、イメージは頭の奥に封印される。実際にイメージを目の当たりにすると浮かび上がってくるが、イメージが実際と違うということは、今までにもあまりなかったことだ。
――だからこそ、イメージすることをやめないんだな――
だが、得てしてイメージだけが先行して、実際に味わってしまうと、
――なんだ、こんなものか――
ということになりかねない。
女性の身体を知ってしまったことは、辰則にとってセンセーショナルな出来事であったが、自分の中で何か一つ楽しみが減ってしまったことを意味していた。
何かを達成すると、何かを失うような気がしてしまうのは、女性の身体を知ってからのことだった。
女性の身体を知ってしまったことに後悔はない。だが、明日香の身体を抱いてしまったことに対して、少なからずの後悔はあった。
――もし、彼女を抱かなければ、もう少し付き合っていたかも知れないな――
ベッドの中で、二人とも普段とは明らかに違っていた。どこかよそよそしさがあったからだ。
その時の主導権はどちらにあったのだろう? 普段なら明日香に主導権を握らせていた。そちらの方が、デートする上でしっくり来たからである。
その日、ホテルに入るまでは珍しく辰則の方にあった。
――今日あたり、そろそろ――
と明日かも考えていたに違いない。
しかし、部屋に入ると、辰則は主導権をどこかに置いてきてしまったように、自分のことだけで精一杯になっていた。初めて見る淫靡な雰囲気に、最初は戸惑い、隣に明日香がいることの違和感を、感じないわけにはいかなかった。
違和感というのとは少し違うかも知れない。隣にいるのが明日香でなければ、想像もつかないことだった。明日香が隣にいるから、淫靡な雰囲気が想像以上のものではなく、またそれ以下のものでもなかった。
――男としてリードしなければならないんだ――
という気持ちはあったのだが、お互いに自然に任せることが、その場の雰囲気をおかしくしないことだと思わないでもない。
とにかく明日香がいとおしい。いとおしくなったら抱きしめたくなるのは必然で、感じた暖かさや、胸の鼓動が辰則の胸の鼓動とあいまって、さらなる鼓動を掻き立てるのだった。
しかし、次第に辰則の中でじれったさを感じてきたのも事実である。淫靡な雰囲気を崩さないようにするには、ゆっくりとした動きが淫靡な雰囲気を掻き立てるのは分かっているが、行動の遅さに訝しさを感じる自分がいるということは、そこにもう一人の自分が見え隠れしている証拠のように思えてくる。
――もう一人の自分――
その意識は子供の頃からあった。
親に逆らうことのできない自分で、親のいうことに反発しながら従っている自分に苛立ちを覚えていた。
厳格な親だった。服装が少しでも乱れていたら殴られたりしたものだ。口癖のように、
「あんたの態度が親の顔に泥を塗るのよ」
小さい頃は自分がすべて悪いと思っていた。しかし、少しずつまわりが分かってくると、自分ばかりが悪いのではないことに気付いてくるが、親に逆らうことのできない自分はもうすでに形成されていたのだ。
――こういうのをジレンマというんだろうか――
他人事のように考えてしまう自分がいる。いっそのこと他人事の自分でいられればどんなにいいだろうと思ったくらいだ。
「お父さんに言うわよ」
これも少年の頃に言われてショックなことだった。
どうしてショックなのかその時は分からなかったが、しばらくして、
――自分の意志もないのかよ――
と気持ちに余裕ができてくると感じたことだった。きっと気持ちに余裕のない時は、感じたくないと、自分の中で封印していたのかも知れない。
それにしても親の言い分はまったく子供を無視したものだった。そんな親がまともな近所付き合いなどできるはずもない。
ただ、近所で行われていた行事には必ずといっていいほど参加していた母親だった。参加しているのに、近所の人はどう感じていたのか最初は分からなかった。
「岩佐さんの奥さん、本当に分かっているのかしらね」
「そうね、あの人が来ると迷惑なのよ。せっかくそれまでにいい雰囲気になっているのに、それが壊れてしまう。しかもいつも遅れてくるでしょう? だから、その日の雰囲気はそれからしか分からないので、どうしようもないわね」
人に聞かれても構わないと言わんばかりに大きな声での噂話は、まるで辰則が聞いていることを知っているかのようだった。
しかし、まさかそんなことはあるまい。まだ小学生の辰則に、母親の悪口をまともに聞かせるはずもない。それだけ辰則が被害妄想に駆られている証拠だと言えるのではないだろうか。
そこまで来ると、開き直りというか、どこか落ち着いている自分を発見することができる。客観的に自分を見つめている自分がいるのだ。
――かわいそうに――
被害妄想に駆られている自分を悲劇のヒーローのような目で見ている。明らかに客観的に見つめる自分は、見下ろしているのだ。
開き直ることができる人間というのは、もう一人の自分の存在に気付くことのできる人間といえなくはないだろうか。
――もう一人の自分――
これは開き直りのできる人間だけが持っているものではない。他の誰にでも、もう一人の自分がいる。ただ、それを意識できるかできないかで、開き直ることができるかが決まってくるように思える。あくまでも辰則が子供の時に感じたことで、子供が感じることだから、信憑性はないかも知れないと思ったほどだ。
成長してくるにつれ、もう一人の自分の存在を意識するようになっていった。異性への意識が遅かったように、元々辰則は晩生だった。身体の成長も晩生で、身長が伸びるのも遅かったくらいである。
作品名:短編集106(過去作品) 作家名:森本晃次