短編集106(過去作品)
言われてみれば、頷くしかなかった。今まで喧嘩したことがなかったことが自慢でもあったし、実際に自慢もしてきた。喧嘩にならないということはお互いに気を遣っていて、相手が怒るようなことをしないからだった。それも相手の気持ちが分かっていなければできないことのはずである。
付き合っている頃や、新婚当初は、それが新鮮だった。しかし、どんなに仲睦まじい夫婦であっても、倦怠期はやってくるものだ。寂しいことであるが、それは仕方のないことである。
――そんなことは分かっていたはずなのに――
それを考えると、後の祭りであることは一目瞭然だった。
――この辺が潮時だな――
あきらめきれない気持ちも強かったが、お互いの精神力や、将来を考えるとあきらめざる終えないのかも知れない。
離婚が決まり、一人になると、
――これからは自由な人生を選べるんだ――
という新鮮な気持ちになれるはずなのに、思ったより心の溝が深かったのか、心底自由を堪能できる気分になれない。
気がつけば一人だった。一人が嫌いなわけではないが、募ってくる寂しさにいつまで耐えられるか、自信もなかった。
そんな時、以前に出張で来ていた熊本を思い出した。熊本の思い出といえば、友子さんの思い出だけなのだが、それでもよかった。何かを見つけられるという気持ちになり、フラッと出た旅だった。
ビジネスホテルに泊まったのも、あまりお金を掛けて大袈裟にしたくないという思いがあったからで、男のくせに傷心旅行など恰好悪いという気持ちも若干があった。
熊本の観光というと、市内であればそれほどのところはない。熊本城、水前寺公園、以前にも行ったことのあるところばかりである。
しかし、それでも佐川は行ってみることにした。今までにない発見ができるのではないかという思いもあったし、今までの気持ちを吹っ切りたいという気持ちからも、違った感覚で訪れてみたかったのである。
熊本城は、全国でも有数の難攻不落の城として有名で、石垣に残った「武者返し」と呼ばれる傾斜は、いかにも戦国の世を生き抜いてきた加藤清正公の心境を忍ばせる。
天守閣から熊本市内を眺めると、意外と狭いと感じた。熊本ほど大きなところではないはずの松江でももっと大きく感じたのは、松江には宍道湖という湖があるからかも知れない。
しかし、熊本が憧れの街であることに間違いはない。しばし天守閣から眺めていると、遠く天草や島原まで見えてくるようで壮大な気分がしていた。
熊本というと阿蘇ばかりがイメージであったが、天草も熊本である。しかし、あまり海に関しては造詣の深くない佐川には、どうしても熊本というと阿蘇のイメージがついてまわるのだった。
――明日はレンタカーでも借りて、少し山の方に行ってみるかな――
と考えていた。天気も当分悪くないという話だし、暑くもなく寒さも感じないこの時期ならではの太陽は、眩しく感じられた。
それでも日が暮れるのは随分と早くなったものである。ビジネスホテルに入る前に、下通り商店街で食事を摂った。あまり大袈裟な旅行をしたくないという感覚であったが、食事くらいは豪勢に行きたかった。
地元でも有名だという馬刺しの店を前もって予約しておいた。
「一人でも大丈夫ですか?」
と聞くと、
「構いませんよ。ですが、混んでくると少しせわしくなるかも知れませんがご了承ください」
ということだった。
元々一人の食事であれば早い方なので、それほど意識しなかったが、なるほど馬刺し料理を目の前にした時は、
――短い時間で一気に食べてしまうのはもったいないかな――
と感じるほどだった。しかし約束なので、短い時間でも味わいながら食べる術を知っている佐川には、それほど苦になるものでもなかった。
時間が余ったが、とりあえずビジネスホテルに一旦帰った。疲れがあったからかも知れない。何となく熱っぽさもあったし、風邪気味でもあったので、ホテルに帰って一眠りしたかった。
日が暮れて少し時間が経っていたので、かなり夜も更けてきているように感じたが、実際にはまだ午後七時過ぎだった。寝るには早いが、ひょっとして夜中に目が覚めるかも知れない。その時は外出してもいいと思って眠りに就いた。ここのビジネスホテルでは、カードキーがついているので、夜間外出は問題なかった。
安心して眠りに就いたが、夢を見たような気がする。
どんな夢というか、本当に夢だったのかと思いたくなるほど鮮明だったのだが、見た夢のシチュエーションはかなり前のものであった。何しろ出てきたのは別れた妻だったからだ。
気分的にまだ新婚時代の頃だった。なるべく波風を立てたくないという思いが強かったのを今さらのように思い出させる夢だった。
あれはいつだっただろう、二人で旅行した時だった。新婚旅行ではないので、結婚一周年記念ということで出かけた温泉だったように思う。
社員旅行で温泉に行ったことはあったが、プライベートな旅行で温泉に行くのは、小さい頃まで記憶を遡らせなければならない。宿に着いてから、嬉しくて旅館内を走りまわったのを覚えている。それを母親は怒りもせずに見守ってくれていた。普段、落ち着きのない態度を取ればすぐに叱られていたのにである。その時の母親の顔が今まで付き合った女性の顔にダブって見えたことが何度あっただろう。付き合った女性に共通点があるとすれば、その表情だったのかも知れない。
目が覚めた時、身体に汗を掻いていた。最初は起きた時、
――もう朝なんだろうな――
と思って時計を見たが、まだ時刻は午前零時を回ったくらいだった。
――これだったら、まだ近くに開いている店もあるかも知れない――
と思って、表に出た。
さすがに高級店には入りにくいだろうが、今回の旅行には少々の贅沢をしてもいいくらいの気持ちはあった。今はコンビニで二十四時間キャッシュカードが利用できるので、気分的には開放感もあった。
まずは、汗を流してからだと思い、シャワーを浴びた。さらっと浴びた程度だったが、絡みついた汗が取れただけでも気持ちいい。服を着替えてロビーに出ると、そこに一人の女性が佇んでいるのが見えて、少しビックリした。
浴衣を着ているわけではなく、普通の服である。別に何をしているというわけでもなく、考え事をしているようにしか見えなかった。彼女の方は最初、エレベーターから人が降りてくるなど想像もしていなかっただろうから、人の気配を感じていなかったようだ。だが、佐川が気付いて二、三歩歩み寄ると、
「あっ」
と言って、振り返りざま叫んでいた。
「すみません。脅かしてしまって」
と恐縮しながら、相手が女性だと思うと、自然と表情も和んでくるのが分かってきた。ビジネススーツが少し暗めのロビーに映えていたが、OLだろうか。
暗い室内で振り返ったその顔は、お世辞にもそれほど若い女性には見えなかった。声も少し歯スキーだったが、驚いた瞬間に発した声だということを考えると、あながち、普段の声だとは言いがたいだろう。だが、普段の声が裏声で、驚いた時に発する声がある意味、本当の声だったりするのではあるまいか。
「どうされたんですか?」
作品名:短編集106(過去作品) 作家名:森本晃次