短編集106(過去作品)
その言葉を聞いて、さらに佐川は彼女が気になるようになった。
学生時代に似た雰囲気の女性がいた。彼女は普段大人しく、いつも寂しそうな顔をしていたのだが、時々賑やかになる。賑やかになる時の雰囲気が事務所での黒田さんに似ているので、寂しそうな雰囲気という坂崎の言葉が印象に残ってしまった。
「俺も彼女の寂しそうな姿が眼に浮かんでくるんだ」
といいたかったが、さすがに控えた。部外者である佐川にまで見切られてしまっては、坂崎の立場がないと感じたからだ。
黒田さんが佐川を意識しているように思えたのは、その時だけだったが、なぜか記憶に残ってしまった。
それから何度か熊本営業所を訪れて黒田さんの笑顔を見たが、それから二度と寂しそうな黒田さんを想像することができなくなってしまっていた。
――何か寂しいな――
きっと、佐川に彼女ができたからだろう。
佐川は地元で彼女ができていた。
――彼女ができれば他の女性への見方も変わってくるはずだ――
と思ってきた佐川にとって、別に不思議なことでも何でもなかった。だが、笑顔の裏に寂しい顔が存在しているのが分かっているだけに、熊本に来ると、彼女の寂しい顔をもう一度見てみたいという思いでいっぱいになる。
受付事務をしているのだから、笑顔なのは当然なのだが、机に向って真剣に仕事をしている姿も何度か垣間見た。その表情は笑顔を見ている時でも、想像は可能であった。
最初会った時の彼女は、ロングヘアーだった。そんな彼女が、出張中に髪の毛を切ってきたことがあったが、ショートカットも似合う女性であることに気付いた。
「ショートカットが似合う女性は、ロングヘアーにしても綺麗なものだ」
と言っていた友達がいたが、まさしくその通りだった。
髪の毛を切ると、少し若返っても見える。前が老けていたわけではなく、大人っぽい雰囲気だったのだ。
――何となく近づきにくい雰囲気を感じたのは、大人っぽさを垣間見ていたからかも知れない――
と感じるほどだった。
寂しさの似合う顔だったとも言えるだろう。大人の雰囲気を醸し出していただけに、寂しそうな顔が忘れられない。少し妖艶な雰囲気さえ感じられ、一度しか見たことがないだけに、記憶の奥に封印されていて、決して忘れることを許さない。それが佐川の気持ちだった。
――彼女のことが好きなのかな――
ショートカットになって、さらにそう感じた。ショートカットになってしまっては、想像していた寂しそうな顔は見ることができないのは分かっている。今度は寂しそうな顔は似合わないからだ。それでも、彼女の魅力の反対側を覗いたように思え、彼女のすべてを見たように感じた。
その時すでに佐川は結婚していた。
結婚するまで、まわりの女性に対して感じていた思いと、結婚してから感じる思いとでは完全に変わってしまった。結婚するまでは、
――まだまだ誰とでも付き合えるけど、彼女に悪いな――
と感じていたものが、
――もう結婚したんだから、他の女性はまったく手が届かないところにいるんだ――
という感覚に変わっていた。
元々女性というものが好きだった佐川である。一人に決めることができるのか自分でも信じられないくらいだった。
大学時代の友達グループ五人くらいの中で、結婚についての将来のことを話していた時のこと、
「一番最初に結婚するとすれば佐川だろうな。だけど、もしそうじゃなければ、一番最後は佐川になるかも知れないな」
「どういうことだい?」
「佐川にとっての結婚観が分からないからさ。お前自身でも分からないんじゃないか?」
「そうだな」
曖昧に答えるしかなかった。結婚について考えたことはなかったが、それよりも大学時代は、女性と付き合うことが、佐川にとってのゴールだった。
――大学時代なんだから、それでいいんじゃないか――
と思っていた。確かに大袈裟に考える必要はないだろう。
「恋愛と結婚は別物だ」
と言われるが、まさしくそのとおりである。結婚を考えるには、それなりに覚悟が必要だと聞く。
「結婚は人生の墓場さ」
などという話を聞くが、決してそんなことを感じたこともなかった。
――墓場になら、誰も入りたくないだろう――
と思うからで、それも実際にしてみないと分からない。
佐川という男、自分で見たり体験したことでないと、信じないタイプだった。人から聞いた話には必ず疑問を感じ、なかなか信じない。それだけ慎重だったと言えよう。
――そんなことはないか、ただ臆病なだけだ――
大学を卒業して就職する時、明らかに期待よりも不安の方が大きかった。それでも何とか就職できて、しかも五月病のような一時的な精神の病に出会わなかったのは、それだけ慎重だったからかも知れない。
「人生、最後は開き直りさ」
慎重ではあったが、いざ就職する時になると、最初ほどの不安は消えていた。ジタバタしても同じだという思いが強かったからだ。
研修期間が終わり、一人で営業に出るようになって、最初の試練があった。
――相手に見られているということを、露骨に感じるな――
と思ったからだ。それまでは、どこか甘えがあった。営業先の相手は海千山千のベテランである。新米の営業マンの粗を探すくらい朝飯前である。
経験豊富な人に逆らえないという気持ちは学生時代からあった。
――何事も最初に始めた人が偉いんだ――
という気持ちが強かったからだ。
結婚した相手とはそれほどの大恋愛というわけではなかった。それまでに大恋愛だと思っていた女性がいたのだが、別れてしまわなければならなくなってから、女性と結婚するということを意識しなくなっていた。
大学時代に付き合った女性は同い年であったが、相手は短大を卒業してOLをしていた。知り合ったきっかけは友達の紹介だった。
男性に対しては社交的だった佐川だが、女性に対してはどこか控えめで、彼女がほしいと思っているくせに、なかなか自分から話すことをしなかった。
「俺って話題性に乏しいからな」
と笑って友達に話したが、これが本音である。相手が女性だと何を話していいか分からなくなってしまう。それは小さい頃からのトラウマを感じていたからだ。
佐川は小学生の頃、まだ女性に対して意識らしいものを感じていなかったというのに、なぜか気になる女の子がいた。友達として一緒にいるのとは違う感覚があり、気がつけばいつも一緒にいた。お互いの家に遊びに行ったりすることもしょっちゅうであった。
名前は直子と言ったっけ、確か呼び捨てにしていたように思う。彼女は黙っていつも一緒にいた。表情もあまり変えることもなかった。それだけでよかったのだ。
彼女としての意識など毛頭なく、ただ、他の人たちと一緒にいるのとは明らかに違う感覚があった。そこに会話がなくとも、それでよかった。直子も会話のないことを望んでいたのかも知れない。
そんな二人を冷やかすような噂が聞こえてきた。もし、直子に異性としての意識があったなら、少し歯冷やかしを嫌なものとして意識したかも知れない。だが、異性としての感覚はそこにはなく、ただ一緒にいることで言い知れぬ心地よさが芽生えてくるだけだった。
作品名:短編集106(過去作品) 作家名:森本晃次