短編集106(過去作品)
と言ってくれた彼女がその後に続けたセリフでもあった。
表でその雰囲気を醸し出しているなら分かるが、会社でも同じような雰囲気があるというのは、むしろ桜井には嬉しかった。そして、それを指摘してくれた彼女を初めて意識し始めたのもその時だったのだ。
彼女は、名前を新宮美恵子という。
年齢にして三十歳手前くらいだろうか。実際の年齢を知ったのはそれからしばらくしてだったが、二十七歳だということだった。
「最初は三十歳代かと思いましたよ」
仕事の合間に話すようになってから、彼女に打ち明けると、
「いやだ、そんなにおばさんじゃないわよ」
と言って笑っていたが、その笑顔はなるほど若く見える。その笑顔を最初に見せていてくれれば、年齢はもっと分からなかっただろう。女子大生のような屈託のない笑顔だったからだ。
「でもね、落ち着いて見えるのも分からなくないわ」
「どうしてなんですか?」
「隠すつもりはないので、最初に話しておくけど、私、一度結婚の経験があるの。二年ほどだったんですけどね。短大を卒業してすぐに結婚したんだけど、二年もすると別れたわ。その時の心境を思い出すのは、今では難しくなったんだけどね」
苦笑いをしている。
「離婚は、結婚の時の何十倍ものエネルギーを使うものだ」
というのは、小説の中でのセリフだった。その言葉が妙に頭に引っかかっていた。
不倫をすれば、必ず結婚生活か、不倫か、どちらかに終わりが来るだろう。それを覚悟で不倫している人もいれば、その時だけの快楽を求めて不倫する人もいる。どちらにしても最後にはどちらかを選ばなければならない。それが小説を重くして、読者を引きつけるに十分な内容になっているのだろう。
最近では慣れてきたが、そのシチュエーションにはさすがに重たさしか感じない。それでも読むのは、やはり桜井に不倫願望があるからに違いない。
美恵子がかつて結婚していたと聞いて、最初に感じたことは、
――思っているよりも遠い存在の女性なんだ――
というイメージであった。
しかし、それだけに近づきたい。
――もっと早く知り合っていれば――
と感じるが、もっと早く知り合っていて、果たして美恵子に対してどんな心境になったであろうか。彼女がかつて結婚していたという事実があるからこそ、自分にとって特別な女性としての意識を持てるのかも知れない。
美恵子は、桜井を弟のように思っているかも知れない。少なくとも会社での態度はそうである。
お互いに会社の外で会いたいと思っていてもそれを口にするのは少し戸惑いがあった。もちろん桜井の側にである。
――いつもならすぐに誘いを掛けるのに――
やはり、同じ事務所の女性というイメージがネックになっているのかも知れない。
桜井は、大学入学までは田舎に住んでいた。
田舎での生活は朴訥としていて、あまり何も考えていなかったように思っていた。しかし、絶えず何かを思って生活していたことは、都会に出てきてボンヤリとしてしまう時間が増えたことを考えると自然に分かってくることだった。
都会に出てくると、田舎にいる時よりも睡魔に襲われる時間が多くなった。田舎ではボンヤリとしているつもりでも、意識がしっかりとしていた。いつも同じ光景を眺めているつもりでも、何か変化を感じていたのだろう。むしろ都会に出てきて、喧騒とした雰囲気の中に身を置いている方が、変わりない光景を見ているようで、不思議な感覚だった。
田舎にいた時の方が、目の前に広がっている光景が広く感じられた。
その土地で育ち、いつも見ている光景だったので、小さい頃に見た光景でも同じ光景であれば、小さく見えてくるはずなのに、なぜか広く感じられた。
――まったく変わっていないものを、変わっていないんだと思うことで、あえて広く感じるようになったとしても不思議ではない――
すべてが無意識に感じることだ。田舎での生活が決して嫌ではなかったことの裏返しかも知れない。
――あれほど、都会に出たいと思っていたのに――
中学を卒業する頃から、次第に都会への憧れを持っていった。毎日同じ光景を見ながら暮らしていることにウンザリしていたからだ。
遠くの山が近くに見えたり、近いと思って見ていると、さらに遠くに見えたりと、一つに搾って見ていると、そのうちに焦点が合っていないのではないかと思えてくる。
――集中できないのかな――
錯覚に近いものなのだろうが、空に浮かぶ白い雲が、風に乗って流れている時などに感じることだ。地上では感じない風なのに、雲だけは靡いている光景は、田舎ならではなのかも知れない。大パノラマが展開される光景で、今まではそれを当たり前のことだと思って見て来たことで、錯覚の原因がなかなか分からなかった。
錯覚の原因を分かろうとしなかったことも理由の一つかも知れない。
錯覚であっても、じっと遠くを見ていて、近くに感じたりするといった遠近感が麻痺してくる感覚に従って、そこから目が離せなくなってくる。そんな時間を桜井は嫌いではなかった。
田舎から都会に出たいと思った感覚はどこから来たのだろう。あれだけ離れたいと思っていた田舎なのに、離れてから夢に何度も現れるようになった。
夢の内容もおかしなもので、田舎の夢を見ているのに、根底にあるベースとしては、自分が都会の人間だと思っていることである。あくまでも都会の人間だと思っていながらも、田舎の光景に違和感がなく、素直に受け止める。
――都会の人が田舎に憧れるのと気分的に違いがないのかも知れない――
都会に出てきてから、最初の二年ほどは、夏休み、冬休み、春休みと、大きな休みのたびに帰っていた。それが、次第に遠のいていったのは、就職を意識するようになってからかも知れない。
田舎での就職はありえなかった。就職するなら都会しかない。もっとも、都会で就職してもどこに配属されるか分からないので、配属先が田舎であっても、それは問題なかった。だが田舎というと自分の生まれ育ったところしかイメージがないので、他の土地には少し怖さのようなものを感じる。それは自分が住んでいたところの人たちを思い浮かべれば分かることだ。
――いや、自分もそうだったに違いない――
田舎に住んでいると、必要以上に都会の人間を意識する。都会という見えない大きな存在を意識すると言ってもいいだろう。
桜井の田舎でも、都会の生活に憧れて出て行って、何年もしないうちに夢破れて帰ってくる人が絶えなかった。
「都会に憧れたって、何もありゃしないさ」
と田舎の人は口にするが、それでも都会に憧れるのは、一種の病気のようなものかも知れない。それも伝染病、それでなければ桜井が都会に憧れる理由が説明できない。
田舎の人が都会に憧れて出て行く方が、都会の人が田舎に来るよりもよほど簡単なようだ。
それは、田舎の人への都会人の偏見もあるかも知れない。
一見、田舎の人は朴訥に思えるが、実際は閉鎖的な人間が多いと、田舎に憧れる人は思うようである。
――実際にもそうなのかな――
元々田舎に住んでいると、最初は分からなかったが、都会に出てきて、田舎のことを思い出すと、閉鎖的だったことを序実に感じてくる。
作品名:短編集106(過去作品) 作家名:森本晃次