殺意の真相
この店に入って流れてきた演歌を聴いてそう感じたのだ。
この路地に入って、最初に感じた、
「路傍の石」
という感情。
相手がこちらを意識していても、こちらはまったく感じることはないという不思議な現象は、ひょっとすると、まったくなくなってしまったわけではない、限りなくゼロに近いものがそういう意識にさせるのかも知れないと感じた。
今回の事件も、実際にこのような、
「限りなくゼロには近いが、消えてなくなっているわけではないもの」
という意識を持つことが事件解決への道になるのではないかと思った。
「僕は何も考えていないように思っている時でも、意外と頭が回転しているものなんだな」
と感じたが、この感覚が事件を解決に導くための最後のヒントを捻り出す力になっているのではないかと感じていた。
世の中というもの、時間が経てば忘れてしまうこと、覚えているはずなのに、思い出せないこと。逆に見たことないはずなのに、どこかに懐かしさを感じるというもの。
懐かしさは錯覚ではない。つまりデジャブではないのだ。年齢や流行った時期を考えて、どう考えても重なるはずのない時期を懐かしく感じるとすれば、それは映像で見たくらいにしか感じられないが、その映像も曖昧なのだ。時代考証をしてみると、明らかな矛盾だらけの光景は、あるとすれば、夢の中で見て違和感がなかったというくらいにしか考えられない。普通の状態なら、明らかに感じるはずの矛盾であっても、夢だという意識を持って夢を見ているからなのか、矛盾を矛盾として考えないのだ。
坂口刑事は、こんな話をかつて誰かと話したような気がする。それもごく最近ではなかったか。もし話をしたとすれば門倉刑事くらいのものだろうが、そう感じていると、門倉刑事も今同じことを考えているような気がしてしょうがなかった。
最近、坂口刑事は、ミステリー小説についての話を読んだのも一緒に思い出していた。刑事の自分がミステリー小説と実際の犯罪事件を混同して考えると頭の中が混乱してくるということは百も承知だったのだが、それを承知で読んでみることにしたのは、
「今、言われていることは、昔であれば、タブーとされたことも多く、実際に何が正しいのか、今言われていることが正しいとも限らない」
という考えがあったからだ。
例えばスポーツをする時のことなど、そのいい例ではないだろうか。
一番最初に思いついたこととして、
「水は飲んじゃいけない」
と以前は言われていた。
理由とすれば、
「バテるから」
というのだったが、今では、適度な水分を摂らないといけないと言われる。
塩分も補給しないといけない。なぜなら一つには生活環境の変化があるだろう。
一番叙実に表しているのは、気候変化の激しさであろう。昔なら真夏でも三十三度を超えると溜まったものではなかった。だが、今は三十五度くらいは当たり前になっていて、年間を通せば日本のどこかで四十度を超えるところが必ず出てくるくらいである。
「熱中症にならないように、適度に休んで、十分な水分を摂って……」
と言われるのも当たり前で、クーラーも昔であれば、身体に悪いからと言って、敬遠されていたはずではないか。
もっといえば、昔にはクーラーもなかったのだ。今だとクーラーのない部屋で三十五度を超えるところにいれば、それこそ熱中症でぶっ倒れてしまうのも当然だ。そうなると、昔のような精神論はもはや通用しない。命の駆け引きに繋がるからだ。
また、昔の常識が今では違うということが証明されていくのが、歴史認識であった。
昭和の頃の教科書と、かなりの部分で違ってきているのは、明らかで、それは考古学の進歩が叙実になってきたことで、今までの常識が覆されていくのだ。
例えば、聖徳太子と呼ばれていた人間。昔のお札になった人物でも、その存在、謂われに疑問があり、今では、厩戸皇子と呼ばれていたり、歴史の認識で、鎌倉幕府の正立年度が、今までの
「いいくにつくろう」
ではなくなってきた。
源頼朝が征夷大将軍に任じられた年として定着していたが、幕府の定義と征夷大将軍は同一だと思われていたが、どうもそうではないようだ。幕府という意識から考えると、全国にその勢力が及んだ時という意識から、
「守護、地頭が全国に置かれたその時」
というのが、今の常識になりつつある。
また、残っている有名人物の肖像画も、よく見ると時代の時系列的に矛盾があったり、家紋に矛盾があったりして、
「実は別の人物だった」
などという説が有力になってくる。
そんな常識が覆ってくる話を聞いていると、
「刑事が探偵小説やミステリーのハウツー本を当てにしても別に構わないではないか」
と思うようになっていた。
確かにミステリー小説は、読者をひきつけるために大げさな理論をぶちまけたり、普通ではありえないような犯罪と結び付けたりして、そこにトリックを絡めることで読者を引き付けようとする。
「事実は小説よりも奇なり」
というが、それは小説を考える人間にも限界があるということであろう。
また、実際にトリックなどに凝らない方が、意外と謎が深まってしまったりするもので、ミステリーのようにほぼトリックが出尽くした状態では、いかにストーリーの意外性や動機などが奇抜でないといけないという思いに駆られるのが、小説家であろう。殺人を犯す人間にそこまで考える必要はない。犯罪者の目的はあくまでも、犯罪の遂行であり、自分が捕まらないように遂行することが最大のテーマだった。
目的は、犯罪の遂行、テーマは犯罪の遂行と捕まらないということの両方だということになる。
捕まらないようにするには、いかに捜査員の目を欺くか、そして相手に自分たちと同じ目線で見せることのないような、トリックとでもいうような罠を仕掛ける必要がある。坂口刑事は、この事件に、どこか投げやりなところもあるが、元締めがいて、その人間が、それぞれの投げやりな部分を巧みに結び付けているように見えた。そこに何らかのトリックが含まれているかも知れないが、それは心理的なトリックではないかと思わせたのだった。
そんなことを考えていると、結構酔いが回ってきた普段はこんなに酔いつぶれるようなことはないのに、どうしたことだろう。久しぶりに呑んだからだろうか。それとも最近涼しくなったことで、ビールよりも熱燗にしたことで、自分で気付かぬうちに日本酒が結構回ってきたのだろうか、身体の芯から温まるのはいいことであったが、これが翌日の仕事に差し支えては仕方がない。
ただ、頭が痛いというところまでは行っていない。身体がほんのり熱っぽくて、まるで宙に浮いているかのような心地よさだ。これを感じていた時、
「麻薬って、打ったらこんな気持ちになるのだろうか?」
と感じ、一瞬身体が固まってしまった気がした。
――何を恐ろしいことを考えているんだ。麻薬と言うと、東雲社長が打っていたという鑑識報告だったが、それが頭にあるから、こんな余計なことを考えてしまったのだろうか――
と、感じてしまった。