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殺意の真相

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 坂口刑事はそんな時、思わず深いため息をつくのだが、溜息をついた後で、ついてしあったことに後悔することもある。
――溜息って、つきたくてつくもんじゃないんだよな――
 というのが、坂口刑事の考えで、疲れた時、虚しい時などにつく溜息を、いまさらながらに思い出していた。
――ひょっとすると、東雲社長の死体を見た時にも溜息をついていたのかも知れない――
 と考えた。
 帰り道を歩いていると、普段とは少し違ったいつもの道ではないところに入ってみたくなった。裏道に入ると、立ち寄ったことのない場所だったはずなのに、どこか懐かしさがあるのは、あまり店などないと思った裏路地だったのに、赤提灯などの懐かしい佇まいを見つけたからだった。
 もちろん、まだ若い坂口刑事なので、昭和の頃を知る由もないはずなのに、居酒屋はまだしも、
「炉端焼き」
 などという文字を見ると懐かしく感じるのはなぜなのだろうか?
 表通りではあまり見なくなった炉端焼きなる文句、そもそもがどういうことなのか知ることもなかった。炉端というくらいなので、飲み屋街以外の普通の道端にあったということなのか、まるで石ころのようなものではないか。
 今でこそ見かけないので、すごく目座らしく感じるが、昔は結構いたるところにあり、庶民が、まるで自分の家に帰ってきたかのような感覚で入れるという意味での炉端だったのかも知れない。
――こういう店は、最初から気にしておかないと、目の前にあっても、誰も意識しないんじゃないかな?
 そう思うと、ふとテレビで見た昭和の裏路地を思い出していた。
 あれはいつ頃になるのか、まだ舗装もされていない道をせわしなく帽子をかぶった背広姿のサラリーマンが歩いている。足早に帰宅する姿は、今のサラリーマンよりもリアルに感じられ、今のサラリーマンの方が、存在感が薄いような気すらしていた。
 歩いている姿は昔の方がせわしなく感じられるのに、堂々として見えるのはなぜだろう。皆同じようないでたちは今も昔も変わりがないのに、昔の人の方が一人一人の個性が際立って感じられる。やはり妄想と想像では違うのだろうか。
 炉端焼き屋もいくつもある。縄のれんに赤提灯。今ではあまり見たことがないのは、店が減ったのもあるが、ある一部の地域にいかないと見られないからなのかも知れない。
 一時期は、
「美観を損なう」
 などの理由で、居酒屋関係が表通りから消えそうになった時期があったが、それを住民の力で阻止したのがこのあたりの地域だった。
 地方によっては、行政の言いなりになり、店を閉めた場所も少なくないだろうが、
「古き良き時代の遺産」
 が消えていくのは、見ていて何とも切ないものがある。
 しかも、そのあたりを行政的に担うのが、自分たち警察ではないか。
 そう思うと、警察というものの存在が、よく分からなく感じられてしまう。
 だが、どうしても気になるのが、炉端焼きという看板の文字だった。学生時代には、お金もないので、時々利用したことがあったが、それが炉端焼きという名前だったタカということすら覚えていない。
――覚えていないくせに、懐かしいと感じるのもおかしなものだ――
 と感じたが、覚えていないdけで、潜在的に意識していることもあると思うと納得できた、
 しかし、そもそも潜在意識というのは、意識していないということなので、そのあたいりに矛盾を感じるが。矛盾するために、言葉の選択が難しいため、苦肉の策として、
「潜在意識」
 という言葉が生まれたのかも知れないとも思えた。
 逆に、意識しているはずなのに、まったく気にしないということだってあったはずだ。それが、
「路傍の石」
 であり、目の前にあるにも関わらず、その存在を意識することはない。
 向こうからは確実に意識していると思っているので、相手は自分が曝け出されたように見えていることが分かっているので、恐怖が募ってくるのは当然のごとくに分かっていることであろう。
 基本的に考えれば、路傍も炉端も同じようなものであろう。(実際の炉端焼きというのは、囲炉裏のそばという意味で、路ではないのだが、道端の道を路として介することもあるようで、実際にこの時の坂口は勘違いをしていた。しかしこの勘違いが後になって事件解決に役立つことになろうとは、まさか本人にも分かっていなかった)
 道に落ちているものを誰がどれだけ意識するか、いや、意識しないものなのか、そのことをこの時裏路地に入ったことで感じることができた。
 坂口は、あまり居酒屋に行くことはなかったが、この日はふらりと一軒も店に入ってみた。
 匂いに誘われたというのが本音だろうが、やはり懐かしさは本当だったようだ。
 中に入ってみると、薬はほとんどいなかった。表から見ていると、ほぼ満席に近いように感じられたが、実は中に入るとほぼ人がいないというのは、イメージとしては悲しく感じる。カウンターに十人以上は座れるはずなのに、奥の方に一組のカップルがいるだけだった。
 店主はカウンターの中で静かに仕込みをしている。客の方も、二人で何かを話しているようなのだが、まったくと言っていいほど声が聞こえない。店内には、まさしく昭和のイメージそのままに、演歌が流れていた。
――今どき演歌なんて――
 そういえば、最近、演歌が流れているような店に入った記憶がなかった。昔だったら演歌が流れるお店はもう少しあったような気がする。
 言っておくが、坂口は演歌が好きなわけではない。むしろ嫌いだった。だが、最近は本当に演歌を聴くことがなくなった。一つはテレビの歌謡番組が昔に比べればかなり減ってきたのが原因であろう。以前なら演歌を流していたのではないかと思うような店が演歌を流さなくなったのか、演歌を流していたかのように思えた店自体を、最近見ることがなくなったからなのか、どちらなのかが曖昧な気がして分からなくなってきているような気がした。
 炉端焼き屋や居酒屋などもそうかも知れない。客層の変化なのか、あまり演歌を聴く気がしなかった。考えてみれば演歌が似合う店ナンバーワンの居酒屋で聴かれなくなったら、それはもう、どこも流していないということになるのかも知れない。
 もう一つ言えば、
「演歌自体が進化して他の音楽のように聞こえるようになったのか、他の音楽と演歌の切れ目が分からなくなってきたことで演歌が減ってきたような気がする」
 という思いがあった。
「木を隠すなら森の中」
 ではないが、演歌を意識しないようになってから、演歌が流れなくなったことに違和感を覚えることはなくなった。
 そこには保護色のような力が働いているのか、それとも嫌いだという意識が無意識に、まるでフェードアウトしていくかのように消えゆく姿が限りなくゼロに近づいているのに気付かせることはないのだろう。
 それは限りなくであっても、実際にはゼロになっていないことが原因なのかも知れない。実際に聴かなくなったとはいえ、ゼロではない。
―ーひょっとすると、世の中にあるものはすべて最後には消えてなくなっているものだと思っているが、限りなくゼロに近づいているだけで、消えてなくなっていないものもたくさんあるのかも知れない――
 と感じることも多かった。
作品名:殺意の真相 作家名:森本晃次