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殺意の真相

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 人はいかに怨恨が強くて、殺人を犯したくもないのに、殺さなければいけないというジレンマに陥ると、何段階か超えなければ、実行にまではいたらないと思っている。川崎晶子の場合に限らず、人を殺すと覚悟したなら、殺すこと以外は何も考えられない瞬間がなければ、きっと人など殺すことはできないだろう。そこには罪悪感というものがあるからなのかまでは分からないが、
「彼女はひょっとすると、その悪魔の時間に入ることができる人なのかも知れない」
 と感じてしまった自分を、坂口刑事は、
「これが刑事としての感情なんだな。実に因果なものだ」
 として感じていた。
 短い時間の訪問であったが、たったこれだけの話で、坂口は何かを得たような気がしてこれ以上聞いても、新たなことは聞き出せないような気がした。
「分かりました。またお伺いすることもあるかと思いますが、その時はご協力のほど、よろしくお願いしまう」
 と言って、彼女の部屋を後にした。
「いいんですか? あの程度の事情聴取で」
 と聞くもう一人の刑事に、
「いいんだ」
 と言って、彼の顔を見ずにまっすぐに歩いていく坂口刑事だった。

              勧善懲悪

 坂口刑事は同僚が聞き込みを行ったが、その時とは少し違う観点から聞いてみようと思った。彼女の雰囲気はそこか能天気なところがあるように感じるのに、どうしてこのような胡散臭いと思われる仕事に携わっているのか。それが疑問だった。
 スナックでホステスをしているだけでは物足りないというのか、それなりの給料は貰っているということだが、この会社に何か他に魅力があるというのだろうか。スナックにいてパトロンがついてくれているのだから、それだけでも十分に思えるが、女の欲望には底がないのだろうか。
「私は、クラブのホステスは基本的に嫌いじゃないんだ。話をしていても面白いし、女の子によっては、本当にしっかりしていて、その辺のOLや主婦に比べても、かなりしっかりした考えを持っていたりする。やっぱり、それだけの重鎮を相手にしているからなんだろうかね。少なくとも努力をすることに掛けては、誰よりもすごいと私は思うんだ」
 と坂口刑事は話した。
 坂口刑事が警官をしている時、いつも交番を通りかかった時に挨拶をしてくれるホステスがいた。
 彼女は病気の母親と、高校生に通う弟がいて、母親の看病をしながら、弟を大学に上げるために頑張っているという。
「私のできなかったことを弟にはやらせてあげたいんだ。特に弟は男なんで、女の私にはできないようなことでも、何でもできちゃう気がするのよ」
 と言っていた。
 そんな彼女を見ていると、まるでおとぎ話に出てきた、
「マッチ売りの少女」
 のイメージがよみがえってくるのだ。
 クリスマスの夜、マッチを売り続けて、最後には凍え死んでしまうという悲劇のお話なのだが、坂口は実は子供の頃間違って覚えていたのだ。
 自分の記憶ではクリスマスだと思っていたが、実際には大晦日の夜で、行き倒れが見つかるのは新年の朝だということだ。
 どうして勘違いをしたのかというのを思い出してみたが、物語の中で、寒風吹きすさぶ中で寒さに耐えられるマッチを擦った時に浮かび上がった光景の中に、七面鳥というのがあったので、それをクリスマスと勘違いしたのではないかと思った。
「それにしても、クリスマスか年末かということは記憶にはないのに、七面鳥を見たという記憶があるということは、それだけ自分がその時空腹だったのか、それとも七面鳥の絵がおいしく見えたのかであろう」
 つまりは、視覚が食欲をそそり、物語の時期を勘違いさせるだけの力があったということであろう。
 このお話は。アンデルセンの童話であった。そもそは、一枚の木版画から着想を得たということであるが、それは編集者から、
「三枚あるうちの一枚を選んで、物語を書いてほしい」
 というものであったという。
 アンデルセンは、自分の花親から聞かされた母親の少女時代のエピソードを童話として書いたというが、内容としては結構ショッキングなものではないだろうか。
 この話を読んで、同じ童話としての、
「フランダースの犬」
 を想像した人も多いかも知れない。
 最後には天に召される形になるのだが、そこはハッピーエンドに描かれた絵本であったり、アニメであったりするのだろうが、逆に言えば。童話などは、本当あ決してハッピーエンドのものばかりではないということだ。
 特に日本のおとぎ話などは、結構悲惨な結末が多い。逆に本当はハッピーエンドのはずなのに、伝承されているのは悲惨な結末というお話も中にはある。それを思うと、子供向けと言っても、結局は大人が介在することで、話がゆがめられたり、改ざんされたりしているものも多いということだ。
 そこには、政治的な意図が見え隠れし、日本の場合は、教育制度が始まった明治政府の影が色濃くなっていることだろう。
 教育問題として、自分たちの都合よく童話や昔話を改ざんすることなど、彼らには当然のことだと感じていたのだろう。
 またおとぎ話の中には、正義という定義が、
「悪を懲らしめる」
 という、
「勧善懲悪」
 という考えに則っているものもある。
 特に、鬼退治モノなどはその最たる例であろうか。桃太郎や、一寸法師、あるいは、親の仇をうつ、猿蟹合戦などがそのいい例であろう。
 ただ、いくらおとぎ話だと言っても、中には本当に勧善懲悪が正しいのかを疑いたくなるものもある。別に悪いことをしているわけでもないのに、鬼だから胎児をするという意味のものもあったのではないだろうか。
「鬼退治」
 というだけで、その鬼たちが具体的にどのような悪さをしたのかなどという話も載っていないものもある。
 ただ、そもそも鬼が人間に対して悪さをしたからと言って、一刀両断で悪だと決めつけるのが果たしていいものだろうかとも考えられる。
 この考えは、人間にとっての都合だけで考えられている。弱肉強食、自然淘汰という自然の摂理において人間という動物は実に弱いものであり、その弱さを克服するために、この優秀な頭脳があるだけのことである。他の動物が生き抜くために、外敵から身を守るために備わった、能力、例えば、保護色であったり、ハリネズミのような身体の針であったり、相手を一瞬にして殺す毒を持っていたりするのだ。だから考え方によっては、別に人間だけが偉いわけではない。鬼にしてもそうである。
 共存共栄を考えようとしてくるのであれば、まだしもそれを考えずに人間を滅ぼしたり、食べてしまおうという発想があるから悪として君臨することになるのだが、鬼の立場からすれば、人間がオニの餌であるとするならば、人間が家畜を餌にしているのと何が違うというのだろう。別に人間が家畜を餌にして食していても、誰からも悪だと言われることはない。
作品名:殺意の真相 作家名:森本晃次