短編集105(過去作品)
妻を亡くしてから、知り合った人から聞かされた。夫婦間を知り尽くしているようで、意外と何も知らずにいたのかも知れないと思う聡の気持ちに楔を打ち込んだ言葉だった。
それから聡は妻と暮らしていた家を出て行くこともせず、ずっと一人で暮らしている。さすがに一年間は、ショックが尾を引いて、会社にいても家にいても自分が何をしているか分からず、時間だけが過ぎていった。それも自分が望んで過ぎていくわけではない。
――寂しさなんて時間が解決してくれるさ――
何度心に言い聞かせたことか、しかしその度に気休めでしかないことを思い知らされる。
人は一日に一度は眠るのだ。眠る時間がなくて、ずっと一日が続いていれば、どこかで妻を忘れることができるかも知れないとも思う。
「一日の中で好きな時間と嫌いな時間は?」
と妻が亡くなる前に聞かれたことがあったが、
「好きな時間は寝る前。嫌いな時間は起きる時かな?」
と答えたものだ。妻がなくなってからも基本的に変わりない。好きな時間というわけではないが、すべてを忘れられる時間という意味で寝る前が存在する。起きる時間ともなると、今度は地獄の心境だ。
起きる時に、
――毎日、同じ日を繰り返しているんじゃないか――
と感じたことがあった。気持ちに余裕のある時だったように記憶している。妻を亡くしてからしばらくは、同じ日を繰り返すことに恐怖を感じながら、変わってほしくないという不思議な気持ちを抱いていたように思う。まったく時間に対しての感覚が以前とは変わってしまったことを感じていた。
時間の長さで自分の気持ちが左右されたくなかった。人間なのだから、気持ちが変わることもあるだろう。だが、それを時間のせいにしたくはなかったのだ。
あくまでその時々の出来事で心境が変わるのだ。出来事を真摯に受け止め、自分の中で理解していくためには、時間を理由にすることは言い訳を作るようなものである。聡にはそれが許せなかった。
妻に先立たれて、会社を辞めようとまで考えたが、とりあえずたくさんあった有給休暇を十日もらった。結婚して新婚旅行に数日使っただけの有給休暇だっただけに、すぐに最大日数に戻る。もっと取ってもいいということだったが、それ以上は社会復帰に自信がなかった。
「どこか落ち着いて旅行にでも行けばいいよ」
旅行といっても、どこに行けばいいのかピンと来るわけではなかった。ポッカリと空いてしまった気持ちが今は会社に来ることで、何とか張りを持たせていたのだ。
――会社にいる時だけが前と一緒なんだ――
仕事が終わって一人になれば、まるで抜け殻だった。会社で仕事している時間が本当は一番落ち着けると思っていたのに、
――いきなり旅行に行けと言われてもな――
有給休暇をもらって、一人家にいることは耐えられない。やはりどこか旅行に出かけるのが一番いい。旅行に出てどんな心境になるか未知数である。ひょっとすれば自殺したくなるかも知れない。しかし、聡はそれでもよかったのだ。
――自殺なんてそんなに簡単にできるものじゃないさ――
と思いながらも、以前に読んだ小説を思い出していた。
短編小説で、読みやすいから買った本だった。一冊がそれほど厚くもない本で、ページ数にして、二百五十ページほどの中に短編が十本。一日ですべて読んでしまう必要もないと考えても、気がつけば結構読んでいたりする。中途半端なことの嫌いな聡は、途中まで読んで、後は翌日などというのは苦手だった。だから五年ほど前までは本を読むことはなかったが、短編小説に出会ってからは、よく読むようになった。
短編小説はどちらかというと毛嫌いしていた。ストーリー性を重視している聡に、短編では読んだ気がしなかったからだ。だが、ストーリー性も小気味酔い文章運びさえあれば短編であっても十分に感じることができると感じたのは、その人の小説を読むようになったからだ。
あとからエピソードを聞くと、文章講座を設けたり、文学賞の審査員になったりしている人で、文章に対しての考え方が他の作家とは少し違って独特なものを持っているようである。
だが、聡にはそれが自分の感性に合っているように思えたのだ。
そう、読書というのは感性で読むものだと思ったのも、その作家の作品に出会ってからだった。
五年ほど前から読み始めたその作家の作品は、ほとんど読破したと言ってもいい。外国のミステリー作家の影響を受けているということだが、日本の作家の中でもジャンルは独特である。
――なるほど、この作品であれば短編が一番いいのかも知れないな――
いたずらに長編にしてしまって、小気味よい作品をダラダラとしたものにしないという意味でも短編がいい。文章に無駄がなく、一気に読ませてしまうテクニック、きっと書きながら読み手の心理まで計算できる人ではないかとまで考える。
自殺についても独特の考え方を持っていた。
小説の中のセリフの一部が印象に残っている。
「自殺する人って、私のまわりでは連鎖反応があるのよ」
「連鎖反応というと?」
「ほら、この間小夜子さんが自殺したでしょう?」
「うん」
「小夜子さんが自殺して彼女の葬儀が終わってから数日で、今度は彼女のお友達の淑子さんが自殺した……。あなたはこれを偶然だと思って?」
「偶然といえるかどうか分からないけど、その二人の自殺の原因はまったく違うところにあるって話だよ」
「ええ、表面的にはね。でも、二人とも自殺しなければならないほど悩んでいたのかしら?」
「言われてみれば確かにそうだ。状況から見てまず間違いなく自殺。自殺と決まればどうしても同期が必要になってくる。警察は何とか動機を探そうとする。それが少々強引でも自殺の原因になりそうなことが見つかればそれを動機にする。でもそういえば、あの二人に遺書なんてあったのかな?」
「遺書はなかったわ。だから警察も簡単に自殺の原因を特定できなかったのよ」
「だけど二人の間に自殺しなければならないような因果関係ってあったのかな?」
「なかったのよ。それほど仲がいいという二人ではなかったしね。葬儀の時も彼女、どちらかというと、小夜子さんの死をいたんでいるというよりも、上の空って感じだったわ。それを見ただけで、自殺するなんて誰も想像していなかったでしょうね」
「君もかい?」
「私だけは何となく分かったの。何ていうのかしら、影が薄かったっていうのか。まるでホラー映画の見すぎだって言いたいんでしょう? そうかも知れないんだけど、私に分かったのは確かだったのよ」
それからしばらくして彼女は自殺した。
彼女も遺書はなかったが、その時話をした相手の男性があとで、彼女の霊前で呟いたところで小説は終わっていた。
「自殺菌か。それって誰にでも移るのかい? 俺だって君が死ぬような気がしていたように感じるんだ。だけどそれは今だから分かるんだ。君はどうだったんだい? あの時に彼女が死ぬのが分かったと言ったけど、それは死んでから感じたことなのかい?」
それまでの疑問を打ち明けるように墓前で手を合わせている。結局、彼は自殺をすることはなかった。自殺菌の話も一生自分の中に持っていくつもりである…・・・。
これが小説の内容だった。
――自殺菌――
作品名:短編集105(過去作品) 作家名:森本晃次