短編集105(過去作品)
美紀が花魁の部屋というものに興味を持った時期があった。廓とでもいうのか、すべてが真っ赤で、襖や箪笥、天井まで真っ赤な部屋を想像している。
明かりだけが黄色く映っていて、すべてが真っ赤な中に明かりまでもが九州されて見える。
したがって、影がない。真っ赤に燃える部屋の中で、火であれば、揺らぐ炎のどこかにすすや影ができても不思議ではない感覚に陥るのに、まったく風もなく、壁や天井までの境目を感じることなく、まるで
――地獄の炎に落ち込んでしまったのではあるまいか――
と感じることもあるのではないかと思えた。
自分の境遇を一人でいるとどうしても考えてしまう。その感覚を麻痺させるために、真っ赤な部屋にわざとしているのではないかと思えてならなかった。
――両側に鏡など置いていたら、それこそ気も狂わんばかりにならないとも限らないわ――
とも感じる。
真っ赤な部屋では無限を感じさせられるが、さらに追い討ちをかけるとしたら、両側に鏡を置いた時である。
――どっち向いても、永遠に私なんだわ――
この気持ちは気持ち悪さに変わる。
以前夢で、もう一人の自分に襲われる夢を見たことがあった。まったく同じ人はこの世に存在しないと思っていても、それは他人事だからあまり気にもならないが、もし自分のことであれば、これほど怖いものはない。なぜなら、自分の姿は鏡でしか見ることができないからだ。
声にしても、自分で聞いている声しか聞こえない。他の人がどのように聞こえているか分からないが、録音したテープの声などは、想像以上に篭って聞こえたりしている。
そんな自分がもう一人いると言われてもピンと来ない。だが、それが夢ではすぐに自分だと分かるのだ。夢の中で見ている自分が、主観としての自分ではなく、客観の中の自分だということなのだろう。
もう一人の存在ほど、夢を鮮明なものにすることはなかった。子供の頃に見た夢の中で、一番怖かった夢として記憶に残っている。
もう一人の自分が部屋に帰ってきた。その瞬間に、
――夢を見ているんだ――
と感じた。どうしてなんだろう。
もう一人の自分は普段の自分とまったく同じ行動を取っている。まったく見ていて何ら違和感はない。だが、
――見つかってはいけない――
必死になって隠れようとするが、どこに隠れていいのか分からない。何しろ、見ている自分がどこにいるのか、その存在すら分からないからだ。
だからこそ夢だと思ったのかも知れない。とにかく逃げなければいけないという衝動に駆られ、逃げれば逃げるほど相手に見つかってしまうような気がしていた。
その証拠に、夢の中の美紀は、誰かを探している。探している時の顔はまるで般若の形相である。目を合わせてしまっては、たちどころに見つかってしまう。それが恐ろしかった。
探している相手は夢を見ている美紀しかいない。夢の中の登場人物は他にはいないからだ。
夢の中の美紀が突然視界から消えた。どこに行ったのかと思い、思わず夢の中に入ってしまった。
――あれだけ入らないように気をつけていたのに――
と思っても後の祭り、気がつけば、目の前に般若の形相の女が立っていた。
首に圧迫感を感じる。一瞬の接触で気持ちよさを感じたのも事実だが、指先が次第に自分のものではないように感じられてくると、震えた両手で首を絞められていることに気付いてくる。
「く、苦しい……」
声になっているかは、分からないが、相手には確実に聞こえているはずである。それでもお構いなしに締め付ける力は、自分だからこそ分かっているというところであろうか。
首から下が、自分ではないようだ。力が入らなくなり、目が脈打っている感覚になってくると、目の前にクモの巣が張ったように見えてくる。
そこから先は現実へ一直線であった。
――現実へ昇っていくのか、落ちていくのか、どちらなんだろう――
夢から覚める途中に感じることだった。美紀には落ちていっているように思えてならない。
夢から覚める時間がひょっとすると一番長いのかも知れない。
夢というのは目が覚める前の数秒に見るものだという話を聞いたことがあるが、そのことが頭から離れない。夢から現実への道がそれほど短いようには思えないからだ。
――祖母と一緒に住んでいた時期が長かったのか、短かったのか、自分でもハッキリとしない――
と思うようになったのは、まるで夢だったように思えるからである。
自分に首を絞められる夢を見たのは一度だけではない。一番印象に残りやすい夢だからこそ何度も見たのを覚えている。案外、夢の内容なんて、それほどレパートリーが抱負な訳ではない。毎日夢を見ていてそれを覚えていないだけかも知れないと思う美紀だったが、そんなに夢に見る内容が毎日あるとは思えないからだ。
――現実世界の両側に夢の世界がある。あるいは、夢の世界の両側に現実世界がある――
と考えるのが、一番しっくりいく。そう考えると、美紀の頭には花魁の部屋にある両側の鏡に永遠の広がりを見せながら無数に見える自分の姿が思い出されてならないのだ。時間が永遠に繋がっていくように、空間だって永遠のつながりがあってもいいのではないかと思うのだ。
見た夢を覚えていることなど稀である。時間が経つにつれて忘れていくし、
――忘れたくない。覚えておきたい――
と思う夢ほど得てしてすぐに忘れてしまうものだ。
それでもふとしたことで思い出すから記憶の中に封印されているに違いない。夢とはいつでも思い出せるようなそんな甘いものではないのかも知れない。
美紀が祖母と住んでいたところの記憶は、現実の世界では次第に忘れつつある。
――忘れたくないのに――
と思えば思うほど忘れていく。しかし、逆に今になってその頃の夢をよく見るようになった。現実の世界で忘れていくと思っていることは、実は記憶の奥に大切に封印されているのかも知れない。
大切に封印されているものでないと、夢に出てくることはないのだと思うと、夢を見たという意識が強まらないだろう。そうでないと、夢と現実の狭間で、
――一体どっちなのだろう――
と気持ちが彷徨ってしまうに違いないからだ。
田舎への思いを馳せる中、高速バスの屋根に当たる夕日が眩しかった。
喫茶店には夕方出かけることが多かった。夏の終わりとはいえ、残暑は厳しいもので、朝夕しかオープンテラスでゆっくり過ごすなど考えられなかった。強い日差しを浴びて、汗だくになってまで過ごしたくないというのも心情であろう。
銀杏並木が夕日の影を伸ばしている。伸びた先にバスが通り、さながら、銀杏並木のトンネルを思わせる。そして、夕日がビルの陰に隠れるかのように電器屋のネオンサインが鮮やかに見えてくる。夕方から次第に夜のしじまが忍び寄ってくるかのようである。
コーヒーの苦さ、以前は苦手であった。高校時代まではコーヒーを飲んだこともなかった。
短大に入学して都会に出てきて友達ができると、喫茶店は必須の場所になってしまった。友達との会話には欠かせないのが喫茶店、友達の間で目立つことはなく、いつも数人の輪の中に埋もれているような美紀には、喫茶店でのメニューの選択は許されなかった。
「コーヒー五つ」
作品名:短編集105(過去作品) 作家名:森本晃次