短編集105(過去作品)
胸は膨らんでくる。お尻に張りを感じてくる。それまで感じなかった男性を意識し始める。すると、男性の視線を感じ始める。今までになかった快感が真希を包んだ。
男性を意識するよりも、男性の視線を意識する方が、真希にとって一番ドキドキする瞬間だった。
実はそれは遺伝ではないかと思っている。それも母親の遺伝である。
母親は、確かに大人しい性格だったが、時々、身体が竦んで動けないようなことがあった。小さい頃はそれがなぜか分からなかったが、次第に真希が成長してくるうちに、
――男性の視線を感じている時だわ――
と分かるようになってきた。
真希が短大を卒業するまで母親と一緒に過ごしていたが、その頃まで男性の視線に身体が竦むことは治っていなかった。
――きっとすっと治らないんだわ――
しかし治す必要があるのだろうか?
真希はこれが悪いことだとは思っていない。母親がどう思っているか分からないが、男性の視線で快感を覚えるのは事実である。
――見つめられている――
と感じるのは悪いことではなく、それは自分が美しいからだと思えて、却って誇らしいではないか。
真希が高校生になってから、母親の雰囲気に少し違いを感じるようになった。
その頃になると、今までほとんど家を空けたことのない母が、時々昼間出かけるようになっていた。
――どこに行くのだろう――
興味はあったが、追いかける勇気はなかった。勇気というよりも、自分が追いかけられて不愉快な思いがすることは、いくら母親と言えどもしたくなかった。すべてのことを自分の身に置き換えて考えてみる真希らしい発想であった。
しかし、放っておくうちに次第にエスカレートしてくる。真希にもそのうちいろいろな発想が浮かんでは消えるが、考えているうちに、イメージが一つに纏まってくるのを感じていた。
――誰か男の人がいるんだ――
すでに男性の視線を感じるようになっていた真希だったので、
――女としての勘――
であることは分かっていた。
追いかけることはさすがに最後までしなかったが、真希の中で膨れ上がっていった発想を、もはや止めることはできなかった。
――男の視線を感じていると、我慢できなくなるものなのかしら――
この発想が短大時代に、絶えず男性を求めるに至った真希の考えを誘発していることは間違いない。だが、それが直接の原因ではなく、むしろ、自分が感じている受身の姿勢を何とかしたいという感情が強かった。
――お母さんもきっと同じだったに違いない――
決して親子と言えども、一緒に暮らしてきて、心を許したことのない相手、それが母親だった。
一口に言えば、平行線のような親子である。別に反発したい気持ちがあるわけではなく、ただ近づくことをしない。距離が近づくこともなく遠ざかることもない。その距離はお互いに存在を意識するに足りるだけの距離であった。
短大を卒業してから、真希はしおらしくなった。大人しくなったというのとは少し違うかも知れないが、会社に入ってから覚えなければいけないことも多く、それ以外にエネルギーを使いたくないのだ。
就職した会社には、あまり女性はいない。いるとしても事務員のパートさんが二、三名。配属になった事務所も出先で、総勢でも二十人に満たなかった。
倉庫で働く人間、さらには営業が数名と、事務員以外で日中事務所にいるのは、支店長と事務員くらいである。
事務所自体は、男性の雰囲気が滲み出ているのに、昼間の留守番は女性が多い。しかもパートさんというのは、主婦が多く、真希とは話が合いそうもない年齢の人たちばかりだった。
確かに事務所に昼間いても、話をすることもなく寡黙な時間が過ぎていく。パートさんはそれでも気心が知れているので、給湯室で休憩がてら、勝手な話をしている。もちろん表に聞こえないようなヒソヒソ声であるが、真希には却って煩わしい。
支店長をはじめ、誰も注意しないので、完全に日課になってしまっているようだ。
「社内恋愛はそれなりに覚悟しておかないといけないわよ」
これは短大を卒業する時に、心構えとして、女友達と話していた時に、真希の口から出た言葉だった。
――あんなこと言っていたけど、そんな心配はなさそうね――
真希が気になるような男性がいるはずもない事務所だった。
――ちょっといいかな――
と思う男性が営業でいるのだが、その人はとっくに結婚していて、子供までいる。話を聞いてみると、実に子煩悩で、事務所の中でも子供の自慢話をしている時間が長いくらいだった。
「それにしても、お前が一番最初に結婚するとはな」
同僚からあまりにも子供の自慢がすぎることで皮肉交じりに言われていた。
「そうだろう? 俺も自分で不思議なんだ。これでも新入社員の頃は、仕事一筋で、女性を意識するなんてなかったことだったんだぜ」
と言い返すと、
「それにしては、入社二年目でのスピード結婚、しかも子供までいたとは、これは恐れ入ったよ」
と冷やかされていたが、ということは、いわゆる
――できちゃった結婚――
というやつである。
昨今、できちゃった結婚など珍しくもないのだろうが、どうやらこの事務所で今までになかったことらしく、
「いきなり身近に起きてしまうと、ビックリしますよ」
と、お喋り好きのパートさんが、真希が入社してから、聞きもしないのに話してくれたものだった。
――ここのパートさんは、人の中傷を話すには、相手は誰でもいいんだわ――
と思わずにはいられない。確かに面白半分の話、どこまでが本当か分からない。かなり誇張している部分もあるだろうが、火のないところに煙が上がるということもないだろう。
そういうこともあってか、真希は事務所の人をあまり信用していない。特にパートさんは信用できず、自分の考えなどをうっかり話そうものなら、面白おかしく誇張されて、どんな女にイメージされて伝わるか、分かったものではない。
真希の視線は絶えず事務所の中に行き届かせておかないと、油断もすきもない状態だった。
いつの間にか狭い範囲しか見ていなかったことに真希自身が気付くまでに、少し時間が掛かった。それを分からせてくれたのは、倉庫で働く一人の男性だった。
事務所に視線が集中している間はまったく気付かなかったのだが、一人の男性が、真希をじっと見つめていた。絶えず見つめているわけではないが、一度の視線は気がついてしまえば、痛いくらいのものだった。
――今までどうして気付かなかったんだろう――
と思うほどで、それだけ視線が内に篭っていた証拠だろう。
視線が内に篭ると、性格も内に篭るようで、表に向けているつもりの意識がまったくなくなっていたことを、その時に思い知らされた。倉庫や営業の人たちとの会話もほとんどなく、一人でいることが多かった。
「いつも彼女一人でいるけど、お局様があれだけ固まっていれば無理のないことだね。彼女、辞めないといいんだけど」
と、同情してくれている声がまったく入っていなかった。
作品名:短編集105(過去作品) 作家名:森本晃次