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短編集105(過去作品)

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 それについて妻が文句を言うこともなかった。今から思えばできた妻で、自分にはもったいないくらいだと思える。一緒にいる時間はなるべく会話をしようと思うのだが、妻の性格だろうか、自分からはあまり何も言わず、聡の話を興味深げに聞いている。それがまた自分の行き方に信念を持てる原因となった聡であった。
――いろいろと楽しい話を仕入れてこないとな――
 ずっと一緒にいれば会話もぎこちなくなるのではないだろうか。話す話題も次第になくなっていって、どちらかが意識して話題を探さないといけなくなる。
 果たしてそこまでして会話というものが必要なのかと疑問にも感じる。会話することが苦痛になるのだけは避けたい。会話が夫婦間の絆を強め、ぎこちなくなれば危機を呼ぶだろう。そう考えると重要なのは分かっているのだが、会話自体のために話題を探す労力を使いたいとは思わない。
 最初のうちはいいかも知れないが、次第に苦痛になってくることは目に見えていた。それは半永久的に続く夫婦間の課題であって、先が見えないことへの不安を浮き彫りにしてしまう。そんな関係で成り立っている夫婦間は嫌だった。
 お互いに会話をしなくとも、気持ちが通じ合えるというところまで行けば立派なものだろう。しかし、それまでの地道な努力があってこそ存在するのではないかと聡は思っている。一人だけでできるものではないだけに難しく、お互いの精神状態、体調その他を加味して考えないといけないことである。
 そんな妻に先立たれた時、すでに二人の間にはツーカーの意識が芽生えていた。
 聡は妻の笑顔が好きだった。人口に笑顔と言っても妻の笑顔にはたくさんの表情があった。
 話を聞いていて微笑ましいと感じた時の笑顔、軽いギャグに反応してくれたときの笑顔、聡の行動をじっと見ていて自然と出てくる笑顔、その中でも聡の行動を見ていて自然と出てくる笑顔が好きだった。
「何見ているんだい?」
「いえ別に、何も」
 黙って笑顔だけを見つめていてもいいのだが、あらたまって聞いた時に現われる恥ずかしげな妻の表情を見てみたいという意地悪な感情が聡に芽生えていた。それも、他人事として見ていれば微笑ましいシーンに違いない。
――この人は自分と別れたいと思ったことがあるのだろうか――
 一緒に二十年近くも暮らしていれば、一度や二度あってもよさそうだ。子供はとっくに諦めていたので、二人だと気楽でいいのだが、どこか他人事に思えないだろうあかと勘ぐってしまう。
「俺と別れたいと思ったこと、あるかい?」
 思い切って聞いてみたことがあった。
「あるわね。今だから私も正直に言えるんだけどね」
「それっていつ頃のことだい?」
「そんなに前じゃないわよ。その時は一緒にいること自体に疑問を持っちゃって、毎日、自分が何をしていたか分からなくなる時間が数回あった頃ね」
 そういえば、よく物忘れが激しくなったと言っていた時期があった。
「年なのかしら?」
「何言ってるんだよ。まだまだ若いさ」
 という会話をしたのを思い出した。その頃は聡も気持ちに余裕が持てる時期で、上の空の状態が時々ある妻を気にしながらも、
――あまり大きな問題ではないな――
 と思っていた。まさか、別れたいなど考えていたなど思いもしなかった。
 表情を見ていれば分かった。別れたいと思っていても、それは自分が分からなくなるという誰にでもある時期で、それを乗り越えればあとで笑い話になることが分かっていたからである。
「今から考えれば滑稽な話なんだけどね」
 と最後に妻は言っていた。まさしくそのとおりだ。その言葉がその時の妻の心境をすべて表していたに違いない。
「いやいや、正直になれるのっていいことさ。相手に対しても、自分に対してもね」
「そうね。私もそう思うわ」
 と言って、お互いに目を見つめあったが、その時に胸が熱くなってくるのを感じた。
――ずっとこんな気持ちが続けばいいな――
 初めてデートし、初めてお互いを知り合った時の気持ちを思い出させる。あの時も、ずっとこんな気持ちが続いてほしいと思ったものだ。そしてその時もであるが、
――彼女もまた同じことを考えているに違いない――
 と思ったものである。
 そんな時に夢に見た記憶がある。例の断崖絶壁のシーンである。
 まさか自殺願望などその時にあったなど考えられない。今でさえ自分に自殺願望など芽生えていない。妻が死んだ時にひょっとしてそんな気持ちになったことはあったかも知れない。自分の中で整理できない状態で、自分が自分でなかったのだ。
 いつも自分を他人事のように見ていた。その方が楽だったからである。
 何があっても他人事、夢を見ている時のような感情である。
 夢で出てくる自分は自分であって自分でない。見ている自分が本物で、主人公はただの俳優にしかすぎないのだ。
 断崖絶壁のイメージはそれだけではない。自殺に限らず、冬の木枯らしが吹きすさぶ中でバスを一人待つことがあったが、そんな時に断崖絶壁を思い浮かべることがあった。
 断崖絶壁のイメージは、自分の中に絶えず存在している。以前、大学のゼミ旅行で出かけた海辺で、東北に出かけたことがあったが、その時に見た三陸海岸の断崖絶壁、観光化されていないのに、誰が探してきたのか、いかにも自殺の名所と言えるような場所であった。
――初めて来たのに、以前にも見たことがあるような気がする――
 それが夢の中でだったのか、それとも小さい頃のわずかな記憶だったのか分からない。可能性としては夢で見たという方が大きいが、実際に見たという意識を拭いきれない。
 夢にしてもそうである。過去に見た記憶というのは、その夢がおぼろげであればあるほど不確かなものになる。
 過去への思いというのは、夢から覚める時に似ているのではないだろうか。たった今の記憶は鮮明なのだが、少しでも時間が経つにつれて、過去への思いが強くなる。それだけいつのことだったか、記憶の中での時系列が曖昧になるのだ。
 初めて来た場所だという自信はもはやなくなった。初めて来た場所でも夢で見たのならば、それは初めてとは言いがたいと思っているからだ。
 前世というものを信じる信じないは別にして、夢の中で見るものは潜在意識のどこかに植え付けられたものである。
――ひょっとして遺伝ではないか――
 と感じたこともあった。親が見た記憶が子供に遺伝しないとも限らないと考えるようになったのは、羊水の話を聞いてからだった。
「人はお風呂に入って落ち着くのは、羊水に浸かっている時を思い出すからじゃないかな。特に人肌に近い温度の風呂に入ると、すぐに水の感覚がなくなってくるが、慣れてくると今度は水を冷たく感じるようになるだろう?」
 思わず納得したものだ。そんな時はお湯をかき混ぜて熱くしようとは思わない。そのままの温度を楽しみたいと思ってしまうのは、聡だけではあるまい。
 夏の暑い時期、体温を越えるような暑さの日が一年に何回かあるようになった。オゾン層破壊などの深刻な自然破壊によるものだが、年間の平均気温が上昇しているのが影響しているようだ。
作品名:短編集105(過去作品) 作家名:森本晃次