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音楽による連作試行

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 大学時代はそんなイメージを持って、月に一度は店に通ったものだ。馴染みの女の子などもできて、旧くっぷんを続けたこともあった。基本的に馴染みの女の子ができて、指名を続ける相手はテクニックというよりも会話の楽しさであったり、いつも気遣いが嬉しい相手だったりした。他の人がお気に入りを作る発想と同じなのか違うのかは、実際には分からなかった。
 三十歳になって、身体が寂しさを感じ始めると、また風俗通いを始めるだろうということは分かっていた。気持ちが大学時代に戻ってくるからである。風俗で何が楽しいかというと、一番楽しみなのは、店に行くまでであった。
 前もって予約を入れておけば、待合室でさほど待たされることはないが、予約も何もせずに行くと、下手をすると二、三十分は待たされることもある。待ちたくないと思っている時は最初から予約をしていくが、予約をしないでいきなり仕事をしながら、昼過ぎくらいに、
――今日、仕事が終わって行ってみよう――
 と思うこともあった。
 そんな時は予約をしない。してもいいのだが、しない方が楽しみが徐々に膨れ上がってくるようで、お店に行って初めてどの子が空いているか分かるというもので、その楽しみもあったのだ
 店に行くと、待合室には誰もいないなどということはまずない。少なくとも四、五人はいるだろう。そのほとんどはタバコを吸うので、待合室は白い煙に包まれてしまった。喫煙をしない嫌煙家の川島としては、勘弁してほしいと思うところであった。
(もっとも、令和二年から、法律で室内は完全禁煙になったので、その心配はなくなったのだが)
 普段は馴染みの女の子がいて、その子を目当てにくるので、急に仕事をしていて行きたくなった時は、まるで別の店に来た時のような気がした。逆にそう思わないと、いつものお気に入りの女の子に入らないという気持ちを持って待合室にいる時は、普段と同じ気分だと辛く感じるような気がするのだ。
 しかも、別の店だと思わないと、馴染みの女の子を他の人に取られた気がするからだった。
 それはその時間になって予約を入れようとしても、すでに希望の時間を取れない可能性が大だからである。
 好きなタイプの女性を他の人に取られたという感覚で、同じ店に行くのは辛い気がするし、さらに好きな女の子を独占できない自分が別の女の子に相手をしてもらうというのも、何か浮気をしている気がして、そちらも気が引ける。
「風俗なのだから、そんな律義な恋人関係の気分になる必要もないはずなのに」
 と思うのだが、あくまでも精神的な意味では風俗といえども、疑似恋愛のイメージを持っているので、そこは譲れない気がしていた。
 だが、指名しようがフリーでどの子に入ろうが、一番楽しみなのは、行こうと決めてから店に入るまでの時間であった。
 その間には、考えなければいけない他のことがある。仕事などが一番なのだが、その大切なことを考えながら、ドキドキとした漠然とした時間が過ごせるのは、実に楽しかったのだ。
 受付を済ませ、待合室に入ると、フリーの時はしばらく待たされるのは、どうしても仕方がない。本当に三十分以上のこともあるのだが、他のことをしていれば、時間というのはあっという間に過ぎるというもので、川島は買っておいた文庫本を開いて待つようにしている。
 他の人はスマホの画面を一生懸命に見ている。スマホに変えたはいいが、その利用法に疑問を感じていた川島は、スマホをほとんど見ることはなかった。基本面倒くさがりだった川島は、スマホになる前のケイタイも、ほぼ通話かメールをちょっとするくらいだったので、基本的にパソコン派だと言っていいだろう。
――皆、一体何をそんなに一生懸命に見ているのだろう?
 と思っていた。
 ケイタイの時もそうだったが、若い連中だけではなく、スーツを着た中年のサラリーマンまでもがケイタイをいじっていて、何をしているんだろうと思ったものだ。
 だが、川島は自分で本屋に行って、読みたいと思うような本を実際に手に取って見て、そして買ってくるのだ。アナログと言われるかも知れないが、それでもいいと思っていた。
 そんな川島がよく読む本は、大正末期から、昭和初期にかけての探偵小説だった。何が楽しいと言って、一番の楽しみは、時代の違いであった。
 トリックなども、多彩である。今の時代であれば、警察の科学捜査も発展してしまっているので、当時の犯罪トリックはほとんどと言って通用しないであろう。
 例えば、
「死体損壊トリック」
 というものがあるが、これは、
「顔のない死体のトリック」
 とも言われ、首を切り取ったり、顔をメチャクチャに傷つけたりして、さらに手首を切断してしまえば、指紋照合もできず、身元を確かめることができない。
 そのため、よく使われた法則として、
「被害者と加害者が入れ替わっている」
 というものがあった。
 犯人を被害者と思わせることで、犯人は死んだことになってしまい、決して捕まることはないというものである。
 今の世の中では少し非現実的だ。一人の人間がいくら罪を逃れるためとはいえ、この世からいなくなるという設定だからである。
 実際にそうなってしまうと、精神的に耐えることができるのだろうか。ドラマなどでは必ずどこかで綻びが出て、いずれは見つかってしまうという話になっていることが多いような気がしていた。
 しかし、もっと現実的な話をすると、現代の科学犯罪捜査の上で、死体損壊というトリックはまず成立しないだろう。
 昔のようにいくら顔を隠しても、指紋照合に使う手首を切り取ったとしても、今では髪の毛一本からでもDNA鑑定ができる時代なので、死体をどんなに損壊させても、このトリックは成立しない。
 もし、死体が見つからないように燃やしてしまうなどすれば、そもそも、
「犯人と被害者が入れ替わっている」
 という状況を作り出さなければいけないということで、この方法は本末転倒でしかないのだ。
 そう思うと、今の時代に死体損壊トリックは通用しないということになり、他のトリックも同じように通用しないものも多いだろう。
 アリバイや密室トリックにしても、今では、どこにでも防犯カメラなどがついている。カメラの映像を見れば、犯人が映っている。映っていないというのは一目瞭然で、これもかなり制約を受け、トリックの幅がかなり狭まるのではないだろうか。
 もっとも、それを逆手に取って、新たなトリックを考えるというのであれば、画期的ではあるが、それもなかなか難しい、
 川島が読んでいる時代の探偵小説の時代であっても、
「もうすでにトリックというもののパターンはあらかた出切ってしまっているようだ。これからの探偵小説は新しいトリックを見出すというよりも、既存のトリックをバリエーションを利かせて、ストーリーを組み立てていくことが大切なのではないだろうか」
 という評論をしている先生もいた。
 確かにそうだろう。
 今のドラマに見られる殺人トリックで目新しいものはほとんどない。
 設定やバリエーションをどこまで広げることができるかということで、ドラマを膨らませることができる、中には、
「二番煎じだ」
作品名:音楽による連作試行 作家名:森本晃次