音楽による連作試行
というトリックもあるが、それを盗作と言ってしまうと、そもそももう探偵小説などはそれ以上の新作が現れることがなくなってしまう。
そういう意味で、ある程度の柔軟性も必要で、新たに書く人もいかに同じトリックを使った自分以前の作品との違いをハッキリさせておかなければ、面白くない作品というレッテルを貼られたり、さらに、盗作などと言われる可能性を考えなければいけないということで、いよいよ制約の面で、探偵小説の幅が極度に狭まることも懸念される。
だから、川島は新しい作品を読もうとしない。あくまでも、昔の作品を読むのが自分の読書だと思っている。
しかも、時代が今とはまったく違った世界で、今はない軍隊などというものが存在していて、実際に戦争が行われていた。
当時の戦争は全世界に波及していて、戦争のない地域はほとんどなかったと言ってもいいのではないだろうか。
植民地時代であり、国家の弱肉強食の時代である。
戦争というと、
「人を殺すこと」
という観念が、今と決定的に違う。
当時は戦争という名の下に、戦場では殺し合いが行われていた。一日に何十人も撃ち殺し、爆弾でバラバラになった死体なども見ることがあっただろう。
しかし、小説の世界ではどうだろう。これは今の時代とあまり変わっていないのではないだろうか。誰か一人が殺されたとして、必死になって犯人追求に燃えるのは今も昔も同じだ。
しかも、復讐関係に関しては、今よりもひどいのではないだろうか。
「俺はこの復讐に自分の人生を掛けているんだ。お前たちの一族を、子孫に至るまで根絶やしにしてやる」
などというおぞましいセリフが聞かれるが、それだけ執念深いということであり、人情に関しては、今よりもよほどすごい時代だったということを示している。
それが、大正末期から昭和初期のまさしくそんな時代だったのだ。
これから指名した恩の子とドキドキした時間を楽しもうというのに、何という本を読んでいるんだという声が聞こえてきそうだが、三十歳を超えてからの川島は、こういう店にくると、何かアブノーマルな発想が頭をよぎるのだった。
音楽でいえば、ロックのリズムといえばいいのか、幅広いジャンルではあるが、その中にはどこか挑戦的で攻撃的な感情を持っている。歌詞にしても、セックスに関してのものや、体制に対する反乱であったり、政治や社会問題を浮き彫りにするようないめーひをm芸術的に哲学的に表しているのがロックというジャンルである。
風俗においてのセックスは受け身だと思われがちだが、女の子の反応を見ることで攻撃的であったり、反抗心などが頭をもたげて、自分も受け身だけではなくなってしまっていることに気付かされる。相手がそれを喜んで受け入れてくれるそんな関係が、恋人とのセックスにはないのだ。
お互いに何かを求めている。それは決して二人だけの世界ではなく、愛情という感情が一人よがりではないことを教えてくれる。
ただ、それはあくまでもその時だけのことであって、決まった時間が終わってしまうと、普段の自分に戻ってしまう。
「時間が決まっているのも、愛情を感じることに制限があることで、感情の高ぶりが尋常ではないのかも知れない」
と感じた。
音楽というものは、制限がある、決まった音階の中で、ある程度の時間にも制限があり、ジャンルごとに奏でる音楽が決まってくるのだ。
ただ、この制限があることで、高度な演奏技術を目指すことで、どのような幻想を抱かせるかが決まってくる。音楽というのは、幻想が見せる芸術だと言えるのではないだろうか。
ロックの始まりは、アメリカで一九六〇年代に流行したロックンロールあたりからではないかと追われている。
その頃に体勢に対する反乱、宗教的な面での反発などがあったようには思えず、あったとすれば、さらに昔のヨーロッパであり、まさにクラシックの時代ではないだろうか。そう思うと、一見、クラシックもロックもまったく違ったものに見えるが、どこかに共通性があり、ひょっとすると、お互いに足りないところを補おうとする感情があり、それゆえ、相違点が多く見えるのではないかという考えも成り立つ。
例えば、ロックは歌詞が重要な意味を持ち、歌詞によって音楽を表現しようとするので、そのメルディは、歌いやすいように作曲され、アレンジが加えられているように思える。しかしクラシックの場合は、オペラなどの歌劇音楽でもない限り、そのほとんどがインストロメンタルである。いわゆるインストロメンタルと言われる器楽曲であり、クラシックの中でもピアノ独奏などではその表現がピッタリだ。
だが、クラシックの音楽は、オーケストラが集まって、同じ楽器を何人もの人が演奏し、コンダクターによってコントロールされることで成立している、
聴きようによっては、同じ楽器がそれぞれに違った音を奏でているようで、そこがオーケストラの醍醐味だと感じさせ、クラシックのダイナミックさを表現しているのではないかと川島は感じていた。
クラシックが奏でる芸術は、幻想音楽をいかにダイナミックに見せるか、それが宗教と結びつくことで、まるでこの世の人の叫び声のように聞こえると思うのは、考えすぎであろうか。
宗教的な発想をロックに対して抱くことができれば、ロクッとクラシックとの融合を考えることができるのではないかと思う。どこかに宗教的な幻想が見え隠れしているロックがあれば、それはクラシックを基調に書かれた作品ではないかと思えるのだ。
それは歌詞というだけに限らず、メルディとしての旋律でも生かされるものである。旋律とメロディは同じ意味と捉えられる。大筋では同じ意味だと言ってもいいのだろうが、川島の中では、それぞれに含みを持たせて考えると、違う方向に膨らみを見せているようで、そのふくらみの違いが、ロックに幅の広さを持たせているのではないかと思うのだった。
風俗嬢が与えてくれる至高の喜びは、決まった時間の間にどのようなバランスという時間配分を使い、いかにお互いを高ぶらせることができるかが、重要な気がした。
「お金を払っているのだから、こっちが気持ちよくならなければ意味がない」
と考えるのは間違いで、
「お金を払っているのだから、お互いに盛り上がって、最高の営みから生まれる最高の感情を生み出すことが一番の快感だ」
と言えるのだと思う。
そういう意味で風俗に通っていると、
「もう結婚なんてしなくてもいいかな?」
と感じるようになってきた。
その感情が、次のステップへと移行していく……。
ポップス
三十歳前半くらいまでは、それでも結婚を諦めてはいなかった。
「そのうちにいい人が現れるかも?:
という他力本願を感じた時、
「やっぱりもうダメなんだな」
と思うようになった。
まるで死の宣告と思った時、昔どの時点だったか覚えてはいないが、クラシックを聴いていた時期のベルリオーズ作曲「幻想交響曲」からイメージしたギロチンを思い出した。