音楽による連作試行
と考えることができれば、もっと早く別れていたかも知れない。
普通の恋愛であれば、未練というものがあるため、少しでも長く付き合っていた方がよかったと思うこともあるだろうが、二人の間にはそれはなかった。あまり未練の中で引きづってしまうと、別れがつらくなるというのもあるのだろうが、別れの辛さをその時の川島は知らなかった。
考えてみれば、子供の頃から自然消滅が多かった。
相手から言われることもなければ、こちらからいうこともない。ある意味自然消滅が一番楽な別れ方だと、無意識に感じていたのかも知れない。ただそれは、
「本当に好きになった相手がいない」
ということでもあり、別れた後で、少し未練が残ったこともあった。
もちろん、それを未練だと思っていなかったので、何か気持ち悪さが残ったというだけだったが、失恋とは別の次元のものだった。
逆に言えば。次元が別だっただけに、違う次元での失恋ということも言えるだろう、本当の失恋を知らずに、このまま成長していくということを、その時の川島はどう思っていたのだろう。成就しなければ、失恋をわざと苦しむことなどないとでも感じていたのであろうか。
通勤で出会う女性は、まだ二十歳過ぎくらいであろうか、朝の通勤時間なので当たり前のことだが、笑顔など一切出さない凛々しい姿ではあるが、
「もし、彼女が笑顔を見せたら」
と思うと、ドキッとしてしまった。
なぜその時、その女性に、
「笑顔を見せたら」
などという感情が湧いてきたのかは自分でもよく分からないが、そんなことを感じたのは初めてのことだった。
同じ駅で降りようようだが、会社は少し別の場所にあるようだ、それでも同じ駅を利用しているというのが川島をドキドキさせた。これは、百合ちゃんにも感じなかった感情だった。
百合ちゃんに対しては自分が意識したというよりも、まわりの方が過敏に反応しただけで、川島の方では、そうでもなかった。今までの恋愛と同じで、どこか流されてしまうところがあるので、相手にもそれが分かるのか、付き合ったとしても、次第に遠ざかっていく、そもそも好きなのかどうなのかも分からない状態で付き合っていた相手なので、遠さ買っていく人を追いかけることもなかった。
もちろん、付き合っていくうちに相手のことを好きになるということもあるだろう。しかし川島にはそんなことはなかった。
離れて行きたいと思っている人を、無理に引き留めるだけの理由が自分にあるわけでもなく、相手から、
「どうして引き留めるの?」
と聞かれでもして、答えられなかったら、ショックを受けるのは相手よりも自分だと思った。
考えてみれば、自分から好きになった人が今までにいただろうか?
どちらかというと相手が自分を意識していたり、まわりから促されて、そんな気になったりと、恋に関しては、積極性はなかった。
いや、積極性のないのは恋に限ったことではない。他にもたくさんだっただろう。将来の夢も別に何かを持ったという時期もなければ、仕事をしていて、何か目標があるわけでもない。
目標がなければ、積極性など出てくるはずもない。目標達成に向けて努力するのが積極性というものではないかと、川島は思っていた。
「だったら、自分に積極性なんてあるのか?」
と自分に問うてみたが、
「あるわけないよな」
という即答が返ってくるだけだった。
会社が近いということで、どこに勤めているのかくらいは知りたいと思った。あまり露骨につけていくと、それこそストーカーの疑いを掛けられてしまう。それだけは決してあってはならないことなのだが、今までになかった積極性が急に出てきた自分にビックリしていた。
彼女はどうやら文具関係を扱っている勝者に勤めているようだ。その会社の本社というわけではないが、主要な支店であることには違いない。
――いつものあの凛々しい姿で仕事を毎日こなしているんだろうな――
と思っていると、彼女の笑顔というのが、かなりレアな気がしてきた。
誰かと一緒に飲みに行ったり、カラオケに行ったりする雰囲気には見えない。いつも一人でいるのが似合っていそうだ。だがこれはあくまでも川島の勝手な想像であり、実際にはどうか分からない。
だが、男性社員に対しては、決して笑顔を見せないタイプに思えた。やはり彼女が男女問わず同僚に笑顔を見せているところは想像できなかった。
彼女の笑顔と、そして普段の凛々しい姿、結びつけることが難しく感じられた。
そんな時、彼女を見ていて頭に浮かんできた音楽はジャズだった。
軽快なリズムにサックスやフルートの吹奏楽器が奏でるリズムは、まさにアメリカ風の音楽であった。
そこに西洋楽器という異色を感じさせることは、一種のギャップなのだが、彼女に感じた普段の凛々しさと、想像する笑顔とのギャップも似ているのではないかと感じた。
「だから、頭の中にジャズを感じたのかな?」
と思ったが、彼女にはどちらかというと、クラシックの重厚さも捨てがたい感じがしたのだ。
そんなことを感じていると、風が冷たい時期になってきて、晩秋の匂いが次第に冬の寒さへと変わってくるのを予感していた。
その彼女が結婚する相手になるなどとは、その時には思ってもみなかった。
ロック
川島が、また風俗に通い始めたのは、三十歳になるちょっと前くらいだっただろうか。結婚してから四年目、少し早いと言われるかも知れないが、倦怠期に入ったと自分では思っていた。
結婚してから一年くらいは楽しかったが、会話が明らかに減っていった。元々意味のある会話をしていたのかと聞かれると、何ともいえなかった。会話のためにいちいち話題を探してくるようなマネがしたくなかったし、これほど億劫なことはないと思っていた。
「会話なんて、楽しければそれでいいんだ」
という考えだった。
だから、何とか女房に笑ってもらおうという考えはいつも持っていたが、真面目な話をしようという意識はなかった。そこにお互いの距離が生まれてしまうなどという当たり前のことを感じたのは、本当に距離を感じるくらいに離れてしまった後のことだった。
しかも、会話がなくなってからも、
――会話がないのは、「便りがないのはいい知らせ」と同じことではないか?
と感じていた。
つまり、何か問題があれば、必ず自分に相談してくれるという思いが強いからで、そこには頼れる人は自分しかいないという思い上がりと、結婚した後の旦那というものに対しての思い上がりが、傲慢さとして意識されたことだということを認識できていなかったのだ。
そのために、ぎこちなくなってしまった状態が、完全に凍り付いてしまった空気を解かすことができない。強引に壊してしまうと、決して修復できないバラバラ状態になって氷解すると、そこにはおぞましいバラバラ死体が残るだけになるのだ。
だから、壊すのではなく、解かすしかない。これは普通に考えれば凍っているものに対しては分かるというものだ。