音楽による連作試行
ある日、クラシックの話を常連が話題にし、誰がどんな曲を好きなのかが発表された時があった。
ベートーヴェンの有名な第五交響曲「運命」や、ドヴォルザークの第九交響曲の、「新世界より」などのダイナミックなものから、その組曲のほとんどを誰もが知っているいえる作曲者の三大バレイ組曲の一つと言われるチャイコフスキーの「くるみ割り人形」などはやはり人気だった。
川島は、同じベートーヴェンの交響曲でも第三番が好きだった。いわゆる「英雄」である。第二楽章の静かな部分が少し長すぎるというのが気に入らなかったが、それ以外は申し分のない曲だと思っている。
ママさんもその話に加わって、皆にとっては少し意外な曲が好きだと口にした。
決して暗い曲ではないが、交響曲というわりには、それほどの強弱がなく、いわゆるダイナミックさに欠けることから、あまり好きな曲として挙げる人はいないのではないかと思われた曲で、
「私は、ベルリオーズの『幻想交響曲』が好きだわ」
というではないか。
確かに、ママの雰囲気であれば、「幻想交響曲」は似合うのではないかと思われた。
「いや、あれはいい曲だね」
と川島が言ったが、どうも曲名を言われても、ピンとこないのは、まわりの人と同じだった。
「掛けてみようかしら?」
とママが言った。
誰も反対する人はいない。ちょうど聴いてみたいと皆が皆思ったことなので、ママも気持ちよくその曲を掛けることにした。
皆目を瞑って聴き入っている。クラシックというのは、元来皆そうやって聴いていたものではないのだろうか?
情景を思い浮かべようと試みたが、どうにも浮かんでこない。他のインパクトのある高校曲であれば、ライン川のほとりの森に浮かんでいるように佇んでいる城のイメージが浮かんでくるのだが、その時はすぐには浮かんでこなかった。するとそのうちに浮かんできたのは、どこかの西洋の街であった。川にゴンドラが浮かんでいるのが見えたので、ベネチアではないdろうか。いかにもルネッサンスを思わせる光景は、この店の雰囲気にはあっているように思われた。
しばらく聴いていると、ママが途中から話し始めた。
この曲は、作曲家のある女性俳優への失恋がテーマだと言われているの。悲惨な情景らしいんだけどね。例えば夢で女性を殺してしまって、自分が断頭台に送られるというようなね」
という恐ろしい話を、目を瞑って聞いていた川島は、さっきまで何も浮かんでこなかった光景が、目に浮かんでくるのを感じた。
最初は楽しそうに草原で花を罪ながら、絶えず上が緒の自分とママがいる。しかし、その花はどうやらケシの花のようで、気が付けば自分はアヘンを飲んで、ママを殺していた。ママが自分を振ったからで、失恋に萌えた自分がアヘンに手を出し、ママを殺してしまったのだ。
迫りくる断頭台の恐怖。目の前にはギロチンが置かれていて、まわりからは、異国の言葉で皆が自分を詰っている、
「殺せ! 早く抹殺しろ!」
とでも言っているのだろう。
鼠色の雲が、何重にも重なって見えた。今にも雨でも降り出してきそうな暗がりに、断頭台は実に汚かった。真っ黒いシミがたくさんできていて、吉良鳴らし言ったらありはしない。だが、それが血の痕だということは分かった。
――どうして、消さないんだ。そんなおぞましいものを残しておく必要などないではないか――
と思った。
――消そうとしても消えないのだろうか? 処刑された人たちの怨念が血痕に乗り移ってこすってもこすっても消えない怨念として残っているのだろうか。では自分の血痕も残ることになる。せいぜい、怨念を残せばいいんだ――
と感じたが、その一方で、
――わざと消さないのではないか――
と思った。
断頭台に血痕を残すことで、
――次回はこんなものは見たくない。そんな世界を作らないように、その時の血痕を消さないようにしているのではないか?
とである。
だが、実際にはそんな甘いものではなく、結局は血痕が残ったままのギロチンを使う羽目になるのだが、どれほどの頻度でこれを使っているのだろう。
そういえば、自分のところには、誰がいつ死刑を執行されるなどということを知らせてきたことはない。それなのに、この群衆はなんだというのか、公開処刑であるが、こんなに暴動寸前の状態でも、誰も止めようとはしない。まるでわざと演出しているかのようである。
もし、本当にわざとなのだとすれば、このまわりの連中は、被害者の関係者なのだろうか? だとすれば、大杉はしないだろうか。
人の群れは幾重にも重なっているように見えた。到底、被害者関係者だけということはないだろう。
彼らの顔を見ると、怒号が飛び交う中、哀れみというか、悲しみを抑えきれないような顔をしている人もいる。
――まさか、今後、処刑が確定している連中ではないだろうか?
と感じた。
自分がなぜその時の記憶がないのかという意識はその時にはなかった。そこまで考えられるだけの精神的な余裕がなかったからに違いない。
断頭台に上る前に風呂に入り、サッパリと下状態にはなっていたが、階段を上っている間に、自分の身体がどんどん汚れて行っていることに気付いた。これから身体から一滴もなくなってしまうほどの血が、首を飛ばされてからしばらくの間噴出し、そのあたりを真っ赤に染めるに違いない。
――私には見える――
そのおぞましい血が、真っ黒に染まっているのだ。断頭台の置かれている広場のコンクリートに沁みこんで、こちらは完全に抜けない色になっていて、どす黒さを呈していた。
そこにさっきまで、鼠色で暗さを感じさせた雲に切れ目ができて、一筋の光が差した。まるで自分をその光が天へと召してくれるのかと思ったが、その光のせいで、断頭台やコンクリートに残っていた黒いシミが、真っ赤な血糊となってよみがえった。
――そうは、物語のようにはいかないか――
と感じ、血糊の色と、鉄分を含んだ血の嫌な臭いを感じながら、首が台に固定された。
今にも落下してくる断頭台を感じていると、急に首が熱く脈を打っている。
――俺は死んだんだ――
と思うと、ふっと目が覚めたかのようになった。
ホッとした安心感よりも、死の世界を見たのか見なかったのかということが気になるというおかしな感情になっていた。
まわりの人はというと、同じように真っ青な顔になっていて、そして何とも不思議そうな顔をしていた。
――まさか、皆同じ妄想を抱いていたんじゃないか?
と思うと、クラシック音楽というものの暗示に、驚かされる川島であった。
ジャズ
川島は、四十歳になるまでの今までに、一度結婚をして離婚を経験しているバツイチであった。
「離婚というのは、結婚の何倍もきついものだ」
と言われているが、まさにその通りで、大学を卒業し、就職した会社の事務員を普通に好きになり、普通に結婚した。交際が二年だったので、結婚は二十六歳だった。
入社しての一年目は、仕事を覚えたりするのに必死だったので、恋愛という意識はなかったが、一年目の冬くらいから次第にまわりを意識するようになると、いるではないか、気になる女性が。