音楽による連作試行
――ひょっとすると、一人目と二人目の風俗嬢との出会いは、気付いた後にいきなり前に進まないようにするためのワンクッションだったのかも知れないな――
という、実に都合のいい考えであるが、
――今からだったら、こういうことを考えたとしてもいいのではないか――
と思うようになっていた。
「宇月さんはどのように自分とのことを考えてくれているんだろう?」
と考えるようになった。
もちろん、ただの友達という段階はすでに超えているということは自覚してくれているはずである。
いろいろなことを人生や、男女間について考えてくると、なぜか音楽の発想になってしまうのは、それぞれの時々で、音楽の発想に繋がる部分を感じていたからではないだろうか。中には忘れてしまっていた記憶を封印から解き放つかのような感覚である。
川島は、そう思ってくると、テクノポップまで考えてきた自分が、さらに何かの音楽を発想できるのかどうか、疑問に思えてきた。
――他に考えられるジャンルもないではないが、これ以上は不必要な感じがする――
と思っている。
それに、音楽というのはいくつものジャンルを踏襲し、前の音楽性を生かして、さらに発展させたと考えられるものがどんどん生まれてくるものだ。
これは、芸術であるからこそ可能なものであるのだが、他の芸術に見られないほどの、放射状への発展性がある。こんな芸術は、他にはないだろう。
組曲
絵画であり、文学であり、彫刻、さらには建築、それなりに文化がその背後には存在し、その文化を持った時代に芸術は存在した。中には翻弄されていた時代があったと言ってもいいかも知れない。
迫害されて、公開禁止になったものもあるだろう。著作本であったり、演劇なども当時の社会の体制に大きく左右されることもあったに違いない。それでも、文化は消えることなく存続してきた。これは実際には芸術が政治体制程度のものに影響されるものではないということを示しているのではないだろうか。
音楽は、文学や絵画などと違って、明らかに違うのは、人間の五感の別の場所に訴えかけるというところではないだろうか?
文学や絵画などは、目で見るものなので視覚に訴えるものであり、音楽は耳で聴くものなので訴えるのは聴覚である。演劇などのように、目で見ながら音やセリフを楽しむという多面的な感覚に訴えるものもあるが、音楽ほど聴覚に訴える芸術はないだろう。
それだけに
「分かりやすい」
というのではないだろうか。
文学や絵画などは、自分から見ようと思わなければ見ることはない。しかし音楽は放っておいても耳から入ってくるものだ。それだけにジャンルの幅が広がりやすいのではないかと思うのだが、どうであろうか。
だが、音楽というものは確かに放っておいても耳から入ってくるものであるが、それに興味を持つかどうかというのは、その人によるものだ。中には
「こんなうるさいもの、溜まったものではない」
と言って、耳栓をして、ただの雑音にしか聞こえない人もいるだろう。
それだけに、音楽は受け入れられない人にとっては嫌いになる要素も大きい。絵画や文学は見ようと思わなければ目に入ってこないのだから、ここまで苦痛に感じることはないだろう。
絵画などは、あまりにも目立つもので、美的感覚を根底から覆すようなものが目の前に広がっていれば、これほどの苦痛はないかも知れないが、よほどのことがない限り、そんなこともないだろう。
川島は芸術的な趣味は他にも持っている。自分から芸術を始めるということはなかったが、本を読んだり、美術館に行ったりということは結構する方だと思っている。
「本を読むのは、一人になれるから、それが一番の目的かも知れない」
最初に本を読み始めた時は確かに、離婚してから一人で寂しい時、どうすればいいのかを考えた時、ふと思いついたのが読書だった。
何を読んでいいのか分からなかったので、歴史の本を読んでみることにした。
実は彼は学生時代にはミステリーが好きで、何冊か読んだ時期があったが、
「基本的に歴史もの以外ではフィクションを読むようにしていて、歴史ものではノンフィクションしか読まない」
という意識を持っていた。
「歴史からは学ぶことが多いので、惑わされないように、ノンフィクションを読んで、それ以外の小説では、一人になってストーリーを楽しみたいと思うから、フィクションになるんだ」
と思っていた。
もちろん、嫌いな本で読みたくもないと思っているものもあった。芸能人が書いた本や、政治家や実業家の書いたハウツーものなどは、自分の中で、
「読む価値はない」
と思っていた。
別に思想があるわけではないが、下手に感化されたくないという思いが強かったからだろう。
絵画も一人で見に行くことが多かった。だが、絵画にしても、本にしても趣味としては長続きすることはなかった。結構いろいろな趣味を漁ってはみたが、身に付いたものは一つもなかった。
だが、その中で、本を読んでいる時、音楽を聴くという、
「ながら」
をしていたことがあった。
以前はすぐに気が散ってしまうという理由で、静かなところでの読書しか考えていなかったが、本を読む時というのは家で読むことはなく、どこかのカフェに立ち寄って読むことがほとんどだった。
その時にBGMで音楽は流れているのだが、その本のイメージでなかったり、本の内容と噛み合っていなかったりすると、読んでいて気が散ってしまうことが往々にしてあったのだ。
そのため、小説に音楽を合わせるではなく、音楽に小説を合わせるという感覚になっていた。といって、小説を合わせると言っても、音楽用に小説をチョイスするわけではない。だから、結局小説を選んでいるという意識になるのだ。その分、一つの音楽を聴くようになると、別の音楽を聴くことはよほど何かがなければ変えることはないだろう。
川島が一番好きなのはクラシックであるが、クラシックの魅力は。幻想的なイメージを想像できるところにある。そのために楽器を駆使することになるのだが、その分、曲のアクセントが重要になってくる。それぞれのパーツや旋律にテーマがあり、細かいテーマを組み合わせて一つの楽章を作り出す。クラシックというと、宗教的なイメージもあるが、やはり、歌劇などオペラによるBGMとしての、音楽構成になっているので、それぞれのパーツで、アクセントが必要になってくる。
このお話にも同じことが言えるのだが、音楽という大きなジャンルをテーマに、各章にて音楽の中にあるそれぞれの特徴があるジャンルをテーマにし、物語を育む。この文章創作方法自体が、このお話のテーマになっていると言ってもいいだろう。
小説の中にも、連作短編というジャンルもあれば、一つの長編の中の各章において、それぞれのジャンルを繋げる書き方もあるだろう。
小説の書き方の中で、ジャンルを繋いで書く書き方もあれば、ジャンルを無視して感性で書く小説もあるだろう。川島が好きな小説は基本的に後者だったが、後者ばかりを読んでいると、疲れが襲ってくることに最近気付くようになってきた。