音楽による連作試行
それとも、それぞれの世の中は保持したまま、別に新たな世の中を創造するということなのか、それも人によって違うのかもしれない。
つまりは、
「離婚というのは、本来は、二つの世界を一つにしなければうまく行かないはずの二人が、新たに世界を創造してしまったということなのか、逆に新たな世界を創造しなければいけない人生を逆に、一緒にしてしまったことから起こる間違いから、陥ってしまう悲劇なのではないだろうか」
と考えてしまう。
そう考えると、最初から間違っていたことになり、最低限相手のことを分かっていないと判断できない状態があるにも関わらず、それを考えることなく結婚してしまったパターンもあるが、逆にうまく行っている夫婦でも、見合いや昔でいう許嫁のような形で、相手をさほど知らずに結婚した夫婦もあるのも事実だ。それを考えると、
「二者の選択は、必ずしも相手を知っておかなくても、相手との相性のようなインスピレーションで決められることでもある」
と言えるのではないだろうか。
それを思うと。結婚というものが、必ず型にはまったものである必要はない。いくら相性がよくなかったとしても、相手を思いやる気持ちがあり、判断できるだけのお互いの力があれば、うまくやっていけるものだし、逆に相手をハッキリと知らなくても、インスピレーションで何とかなることもあるのだろう。
ただし、最低限の条件として。
「相手のことを知りたいと感じる思い」
それがなければ、成立しない考えなのではないだろうか。
川島も、もう四十歳近くになってくると、そのことが分かってくるようになった。何もなかったと思っている三十代という年齢であったが、実際としての事件がなかっただけであって、何かを考えていたというのは、間違いのないことであろう。
自分の中で無意識に蓄積しえtきた感情があり、その間を充電期間と考えていたのかどうかは分からないが、そのうちにあ暗めの境地もあったのか、
「もう、結婚したいと思わなくなるのではないだろうか」
と思うようになってきた。
まわりの人からすれば、
「まだ四十歳にもなっていないのに、その考えは早すぎる」
という人もいるが、自分のまわりの四十代というと、結婚していて、夫婦円満な家庭はそれほど少なくもない。
そして、独身を通している男女も結構いる。もう結婚や恋愛の話を自分からする様子もまったく見られない。その心境は、
「この歳になって」
という思いが強いのか。
その思いが、
「この歳になって恥ずかしい」
という思いになるのか、それとも、
「この歳になったら、結婚なんかしなくてもいいという悟りのようなものが脳裏をよぎるのか」
というどちらかではないかと思っている。
若い頃に予十歳前後の人で独身者が、結婚のことを口にしないのは、ほぼ間違いなく前者だと思っていたが、今になって思うと、
「いや、後者だったんじゃないか」
と感じるのだった。
川島は、今、人の人生を世の中にたとえ、そして結婚するに際して、一つにするのか、新たに創造するのかという二者択一が必要だと考えた時、今まで考えてきた音楽について考えるというよりも、
「このことに気が付いた時にイメージしていた音楽が、テクノポップだった」
ということを考えるようになった。
風俗にいた女性もあまり相手が自分のことを風俗嬢たという意識がなかったことも共通して気に入っていた理由であった。せっかく一緒にいる時間でお互いに相手を必要以上気にしてしまっては、楽しくはないだろう。風俗嬢の方からすれば、お客さんに意識されると、恥ずかしくて接客しにくいという気持ちもあるだろうが、逆に客からすると、女の子に自分のことを必要以上に風俗嬢だという意識を持たれてしまうと、なかなか会話も進まない。意識しなくてもいいことまで意識してしまうことになるだろう。
お互いに相手に対して気を遣うことになる、歪な時間が流れていくことになる。
最近の風俗はそんな雰囲気があまりないのがいいところだと思っている。ほとんどの女の子が、
「小部屋の中でだけは恋人気分でいたい」
という気持ちを持ってくれているようで、客の方としても、変な意識をしないで済むのだ。
考えてみると、まだ女性と付き合ったこともない男の子が、、初めて女の子と二人きりになる時の方がよほど恥ずかしいのではないだろうか。そういう意味で、昔のように、大学の先輩が驕りで後輩を風俗に連れていって、
「筆おろし」
をさせるなどというのも、ある意味で理に適っているのではないだろうか。
結婚に失敗して、男女の関係に疑問を感じ始め、次第に結婚なんかしなくてもいいと思うようになってくると、風俗での寂しさを紛らわせるだけという関係でも本当に貴重な気がしてくる。
川島は宇月さんと知り合ってから、結婚のことを考え直すようになってはいたが、本当に結婚しようという意識までは、まだ感じていなかった。結婚というのが、いかに難しいものであるかということを分かっているからである。
「好きだというだけでは成立するものではないし、いくら相手のことを気遣っていたとしても、それが自己満足にすぎない場合だってあるんだ」
ということは、結婚前から理屈としては分かっていたつもりだった。
分かっていただけに、余計に結婚というものが難しいと実感する。
分かってなかったことができなかったのなら、次回には同じ失敗を繰り返さないようにすればいいと思うだけだが、実際にはそうではない。分かっていてできなかったということは、本当に分かっていたわけではない。分かっていると思っていただけのことだと思うと、それは、
「勘違いだった」
ということにしかならないだろう。
分かっていると思っていたのが思い上がりだったのか、それともただの勘違いだったのか、それによっても変わってくる。
思い上がりだったのだと自覚できれば、自分のことを分かっているということなので、また結婚を考えてもいいのかも知れない。
しかし、勘違いだったと思うのであれば、それは自分のことを分かっている分かっていないの問題ではないだろう。だからと言って、結婚できないという境界線ではない。思い上がりにしても、勘違いにしても、気付いたということは自分にとっての大きな進歩なのだ。要するに、結婚を考えていいのか悪いのかということは、その後を自分がどう考えるかということに関わってくる。つまり。結婚してもいいのか悪いのかということも含めてということになる。だから、思いあがりであっても、勘違いであっても、そのことに気付いた時、一緒に考えることではないのだ。
物事には段階というものがあるが、一緒に考えることができないものもあるという意味では、気付いたことを先に進めていいタイミングと、一歩立ち止まって考えるタイミングがあるということである。
そのことを考えると、川島は今が再婚を考える時なのかどうかを戸惑っている。しかし。そのことを考え始めているという意識だけは持っていないといけないと思っている。