音楽による連作試行
身体の愛称はバッチリだった。お互いを求めて貪り合い時など、自分がまるで最近童貞を捨てた時のような、感覚よりも感情が先に立っているかのように思えたくらいだ。だが、妻と離婚して、それから彼女もおらず、風俗で身体の寂しさを紛らわしていた時期は、
「感情よりも感覚」
を相手に求めていると思っていた。
だが、お気に入りの女の子ができると、決められた時間での疑似恋愛ではあったが、相手に求める思いが変わってきた。
「感覚よりも感情」
に変わったのだ。
だから、宇月さんを抱いていて、
「感覚よりも感情」
と感じた時、本当であれば、今も感じていることだと思うはずなのに、なぜか思い切り時代w遡らなければ、同じ言い回しでも同じ感覚に至ることができないようだった。
――やはり風俗の女の子に感じた恋愛があくまでも疑似恋愛で、今こうやって宇月さんに感じている恋愛が、本当の恋愛感情だ――
ということを証明しているのかも知れない。
二十代の頃は、元女房になる人と付き合い始めてからは、風俗通いをやめていた。
――彼女に悪いから――
という思いと、自分の中にある罪悪感が理性を刺激したのだ。
そもそも、寂しさから通っていたと思っていた風俗、正式にお付き合いする人が現れたのだから、わざわざ大枚をはたく必要もないというものだった。
その時はそれでよかった。風俗に通わなくなったことを、よかったと思っていた。
だが、今は宇月さんと付き合っている間でも、風俗に通うことをやめていない。宇月さんに悪いという思いも、罪悪感や背徳感もその時の川島にはなかったからだ、
――そういえば、罪悪感や背徳感というのは何だったのだろう?
風俗に通っていることを、
「寂しさから」
と思っていたのだが、罪悪感があるということは、寂しかったという思いを悪だと捉えているのだということになる。
しかし、二十歳代の頃、どんな気持ちで通っていたのかというのを思い出した時、決して罪悪感を感じたわけではなかった。ただ、広い意味での罪悪感や背徳感だったのかも知れないとは思ったが、それは、
「お金を使って、時間を買う」
という行為が、人間の一番人間臭い、性行為という身体が求める欲望であることにあったのだろう。
それではそのどこに本当の罪悪感があったのかを、消去法で考えていくと、最後に残ったものは、
「お金」
だったのだ。
一番現実的で、何かを解決するためには秒で決まってしまうだけの力を持っているが、一歩間違えると、人の人生を狂わせてしまうだけの力を秘めているのが、お金ではないかという考えも成り立つわけだからである。
お金というのは、ある意味汚いものに見られがちだが、これほど正直なものはない。
「背徳感や罪悪感というのも、お金で買えるものなのかも知れない」
と感じさせるからだ。
「結婚を考えたきっかけは何だったのか?」
と言われると、すぐには答えが見つからない気がした。
「もう、これ以上の人は自分の前に現れない」
という思いであったり、
「この人に運命を感じた」
などというベタな言葉ではない。
そんな言葉は、もう十年以上も前に考えて、相手も同じ思いでいたことで結婚したあの時だけだっただろう。お互いに結構適齢期、いわゆる、
「盛りの激しい時期」
は過ぎてしまったのだ。
だが、人間には確実に、結婚適齢期というものが存在する。何千年という歴史を遺伝子というものが紡いできたのだ。そのことに間違いはない。
だから、結婚したことに対して、
「間違っていた」
という感覚はない。
相手が悪かったとか、相性が合っていなかったなどというのは、後になってから結果論として分かるもので、結婚適齢期に異性と出会って、その人と、
「この人となら」
と思ったのだとすれば、それを間違いだと考えてしまうと、自分の人生のほとんどを否定してしまいはしないか。
そこまで考えてしまうと、自分の生き方を否定し、あまりにも後ろ向きな自分しか見えていないことになる。
今から思い出すと、確かに十年以上の月日が経ったことは理解できる。あれだけこの十年を思い返して、
「あっという間だった」
と感じているくせに、今の時点から過去を思い返すと、そこには大きな時間が存在していることをいまさらながらに思い出させるのだった。
この思いは、同じ高さの場所の
「見る位置と、見られる位置」
と、上からと下からで見比べた時の違いに似ているかも知れない。
例えば、三階のベランダに誰かがいたとして、下からその場所を見上げるのと、自分がまったく同じ場所にいて、下にいる人を見下ろすのでは、同じ距離だという前提のもと、本当に同じ距離に感じるのだろうかということだった。
これは、実際にその状況を作らなくとも、想像できるというものだ。
上から見下ろす方が、下から見上げるよりもかなり遠くに感じられるということである。これは錯覚によるものだが、その錯覚を引き起こすのは、普通に人間が考える、
「高いところが怖い」
という感情であろう。
高いところから落ちた経験のある人であれば当然のことだが。たまに高いところから落ちた経験のない人出も同じ錯覚を起こすことがある。それはきっと、
「遺伝子の力なのではないか?」
と感じるのだった。
昔の先祖が高いところから落ちて。痛い目に遭ったという意識をトラウマとして持っていて、それが遺伝子というものを使って、子孫に受け継がれているのかも知れない。
実際に、見たり行ったりしたことのない場所を、
「初めてではない」
と感じる、デジャブ現象というのも、遺伝子が紡いできたものだと考えると、辻褄が合っているように思えるのは、それほど不思議なことではない。
高いところから下を見た方が、同じ距離であるにも関わらず、下から見上げるよりも遠くに感じるという錯覚が、年齢を重ねてきた時間を自らで意識していたことは、意識しないようにわざと、十年間というものを全体的に掴もうとすると、本当に中身ががらんどうで、あっという間だったような気分にさせるのかも知れない。
「全体的に万遍なく見えているということは、それだけ平穏で何もない時期を過ごしてきたということなのだろう」
という思いを自分の中で確信に変えようとして、時々、三十歳代を思い起こして、その時期が何もなかった時期で会ったという間だったということを感じると、平和で穏やかな気分になれるのではないかと思うからだった。
世の中というのは、横に広い世の中もあれば、縦に長い世の中、つまりは一人の人間が縦長に過ごしてくる人の一生も、一種の、
「世の中」
という発想になるのかも知れない。
人それぞれに、「世の中」というものが存在していると考えると、その間には、きっと乗り越えることのできない結界のようなものがあるような気がする。
結婚というものは、その結界を超えて成立するものなので、結界を乗り越えるだけの力がいるのか、それとも、結界にもこれだけ世の中に存在している人の中に少なくとも一人は結界を乗り越えて、
「二つの世の中を一つにする」
という力が存在するということであろうか。