音楽による連作試行
「もし、それを普通に分別のある大人がその立場で聞いていれば、きっとあなたの言葉を言い訳と取るでしょうね。子供の頃に訳も分からずに捨てられたというけど、それはあなたが片づけをできなかったことが引き起こしたこと。そして大人になってからも、判断ができるのに、判断ができないということは、逃げているという発想だとして、きっと一刀両断するでしょうね」
と言い切った。
もちろん、そんなことは川島にも分かっている。分かっていて敢えて話したのは、そんな言葉を聞きたいからではなかった。
だが、そこまで言い切った後で、また笑顔を見せた宇月さんが話し始めた。
「というのは、さっきも言ったように、普通に分別のある大人が、その立場で聞いていた時の話ね。あくまでもその立場ということね」
「どういうことですか?」
「人それぞれに立場というものがあるでしょう。私だって、今はプライベイトで聞いているどけ、教師という立場でその話を訊けば。さっきのような一刀両断の意見を口にして終わりだったかも知れない。でも、今私の立場は、普通の分別のある大人の立場ではなく、あくまでもあなたのお友達という立場で聞いているので、そのつもりでお話をすると、あなたは、きっとモノを捨てられた瞬間にトラウマに陥ったと思うのよ。今では、トラウマに陥る前の自分が、モノを捨てる判断ができずに、片付けもできなかったと言っているけど、ある意味モノを捨てる判断ができない人に片づけを強要することの方が私は無理があると思うのね。だから、あなたは親が自分のものを捨てたという行動に怒りを覚えるよりもトラウマになってしまった。あなたが親に対して怒りを覚えているとすれば、それはモノを捨てられたことに対してではなく、自分がトラウマに陥ってしまったことへの親が行った行動に対して怒りを覚えているのよ。そこを勘違いしているから、トラウマは消えることもなく、あなたにのしかかっていて、永遠にモノを捨てることができない人間になってしまったんだって感じているんだと思うわ」
彼女の表情は最初険しく見えたが。途中から同情のような表情が入ってきた。
決して同情しているわけではないように見えたが。その表情には豹変したという印象はなく、最初からにこやかに感じられた。
そう思って見ていると、彼女の顔に余裕が感じられ、この余裕が豹変したはずの彼女を、最初から笑顔だったと感じさせる要因だったように思えてきた。
――この表情が、前の女房にはなかったんだ――
と感じた。
「宇月さんのその余裕を感じさせる表情、僕は安心できる気がするな」
というと、今度は急に宇月さんの表情が翳ってきたのが気になった。
――あれ? 僕は今失礼なことを言ったのかな?
と感じた。
すると、宇月さんはゆっくりと話始めた。
「今のあなたの余裕があるという表現、実は私の前の旦那が言っていた言葉だったんです。それも別れる前くらいになって急に言い出した言葉で、よくあの人から『お前のあの余裕のある表情が憎らしいんだ』って言われました。憎らしいと言われたんですよ。面と向かって、どれほどの屈辱だったか分かりますか?」
と、宇月さんは訴えてきた。
驚いた川島は、
――自分が助けられたと思って言った言葉が相手を逆上させることになるなんて。本当はありがとうという言葉の代わりだったのに――
と感じた。
自分の考えている、
「余裕があるというのは、宇月さんにとって、もろ刃の剣のようなものなんでしょうかね?」
というと、
「そうかも知れない。私は余裕があるという言葉にトラウマがあるんですよ。普通であれば褒め言葉になるんでしょうけど、人におっては、褒め言葉が相手の傷口を広げることになるという意味で、恐ろしいものですよね。特にトラウマが絡んでくると、結構厄介ですよね」
と宇月は、冷静に解説していた。
たまに男区長になる宇月さんを見ていると、
――男だったら、親友になっていたかも知れないな――
と感じた。
男っぽいところを見たからと言って、彼女に対しての思いはさほど変わらない。いきなり付き合いただとか、その先の血痕などは全く考えていないが、女性としてもっと彼女のことを知りたいと思った。
今までは、女性というと、女房か、大学時代の数人の友達か、くらいしか意識をしたことがなかった。会社の事務員に対しての感情は、事務員としての言葉通りのそれ以上でもそれ以下でもない。後はというと、風俗嬢の女の子くらいだろうか……。
実は風俗嬢の女の子で、一人気になる女の子がいた。あれは離婚してからすぐくらいの頃だったので、自分が寂しいだけだったのではないかと思っていたが、後になっても、自分が意識した女性という回想をした時、数少ない女性の中で浮かんでくるのが彼女のイメージだった。
彼女も何か大きなトラウマを抱いているようだった。
「風俗で働くくらいだから、いろいろあるわよ」
と一度そう言っていたのを思い出した。
これは、川島が自分から彼女の素性を訊いたりしたわけではない。最初から客と女の子という関係なのだから、決められた時間内をいかに楽しく過ごせるかということが一番のはずだ。だから、そんな関係の相手に対して怒らせたり気分を悪くさせたりするのは、ルール違反であり、望んでいるサービスを受けられなかったとしても、それは自業自得であるということは百も承知だった。
彼女は以前、確か違う店だったが、贔屓にしていた女の子に似ていたのだ。その子とは結婚前くらいに贔屓にしていた女の子で、たぶん、大学を卒業し、就職してすぐくらいのことではなかっただろうか。
川島は浮気をしたり、結婚している時に不倫をしたりは一切なかった。スナック通いもキャバクラ通いもなかったが、ソープだけは利用していた。
モノは考えようで、浮気や不倫のくせはあるが、、ソープのような風俗には通っていない男がいいか、逆に浮気は不倫は絶対にしないが、ソープにだけは通っている男のどちらがいいかという、一種の究極の選択だ。
どちらもない方がそれはいいのかも知れないが、今後まったく何もないという保証はない。どちらかを続けていれば。どちらかはないということが証明されるのであれば、果たして、女性はどちらの男性を旦那にした方がいいだろう?
そんなことを考えながら別に風俗に通っていたわけではないが、昔通っていた時にお気に入りだった子は、、実に素直な子だった。いつもニコニコしていて、清楚さが際立っていた。しかし、たまに寂しそうな表情を見せるのが気になっていた。なかなかの安月給でそう何度も通い詰めるのも難しく、二月に一度くらいの割合で通っていただろうか。
その子も音楽が好きだと言っていた。
「私は、ジャズかな?」
と言っていた。
なぜかと聞くと、
「ジャズって綺麗な音楽というわけではないような気がするのよね。クラシックに比べてね。幻想的ではないんだけど、何か深い気がするのよ。普通の緑が深緑に変わった時、緑が深紅に感じられたり、紫紺に感じられたりするの。深さってそういうことなんじゃないかって思うんだけど、ジャズはそれを教えてくれるからかしら?」
という言葉が川島の心を掴んで離さなかった。