音楽による連作試行
「昔はそんな発想はなかったんですけどね」
と、川島は答えた。
「異世界ファンタジーというのは、私もほとんど読んだことがないのでどんなものなのかよく分からないんですよ。童話の冒険ものを大人向けにしたような雰囲気なんでしょうかね?」
と聞かれて、
「そうなのかも知れませんね、小説なんかでもいうじゃないですか。成長モノって言われる感じあんでしょうね」
「でも、何だか皆が皆書いていると、似たり寄ったりの作品にならないのかって思うんですけど」
「それはなるだろうね。それでもいいと皆が思っていろということなんじゃないかな? それがブームというものであるのなら、それも仕方がないことなのかも知れないしね」
というと、どうも宇月さんの方は、納得が行っていないようで、
「皆が皆同じものを目指すのって、私はどうしても納得が行かないんです。一つのジャンルの中でそれなりの個性を見出そうと意識しているなら分かりますが、明らかにほとんどの人は、そのサイトであれば異世界ファンタジーが強いから、そちらを書こうという意識がバレバレじゃないですか。その気持ちがどこか許せない気がするんです」
と、宇月さんは怒りのようなものをあらわにした。
「確かに売れ筋に皆が群がっているのを見ると、ハイエナしているようで、見ていて醜く感じますよね。しかも異世界ファンタジーだったら、小説家になれるんじゃないかなんて考えているとしたら、僕もそんな連中を見ているとヘドが出てきますけどね」
「そのあたりの気持ちと、人と同じでは嫌だという気持ちが微妙に絡み合ってきているような気がするんです。だから、異世界ファンタジーは僕の中で、小説のジャンルとして認めたくはないくらいですよ」
というと、
「ええ、私たちと同じ考えの人って、結構いるんじゃないでしょうか?」
批判で意見が一致するというのも悪い気がしない。
ただ、少し寂しい気はしたのだが、この考えが宇月さんの考え方の基本にはあるようだ。ヘビメタが好きだと言った意味も、何となく分かる気がした。
ラップ
「いろいろな音楽がありますけど、私はラップというものにも少し興味があるんですよ」
と、また話が変わった。
異世界ファンタジーの話をしていても、これ以上は憤りが過ぎると愚痴以外の何者でもなくなってしまうという気持ちから話を変えてきたのかも知れない。ただ、それにしても同じ音楽の分野で今度はラップとは、ちょっと飛躍しすぎているのではないだろうか?
宇月さんは続けた、
「ラップって、私はあまりその頃音楽を聴いていなかったので知らなかったんですが、どうも昭和末期くらいからの流行りらしいですね。アメリカの方では、もう少し前からだったようなんですけどね」
「そうなんですね。僕もあまりラップには詳しくないからですね」
「ラップというのは、インストロメンタルな器楽曲にセリフを織り交ぜているように感じるんですけど、日本のラップというのは、どうしてもアメリカで流行ったものを少しでも超越しようとする思いがあるのか、あるいは、まったく他の音楽と違った新たなものだという意識が強すぎるのか、現存のジャンルの音楽に無理やり引っ掛けようとしているように感じるのは私だけでしょうかね?」
「どういう意味ですか?」
「ラップという音楽は、元々の器楽曲にセリフを載せるという感覚ですが、セリフという歌詞のインパクトが強すぎて。元の器楽曲が目立たないんですよ。だから、元々のベースを器楽曲に限定せずに、例えばベースをロックにしたり、クラシックにしたり、あるいは演歌にしたりと、ボーカルのイメージが強すぎるので、どんな音楽にも合ってしまうのではないかと思わせる部分が多分にあるのが、ラップという音楽だと思うんですよ」
という。
「うん」
「でも、もう一つ感じるのは、モノを捨てられない感覚がラップを呼んだのではないかとも思うんですよ。元々は基盤になる音があった。でも、そこにボーカルが入ってきたために新たな音楽が出来上がったけど、ボーカルが勝手に一人歩きをすることで、ボーカルのテクニックによって、どんな基盤の音楽にも合わせられるようになる。そういう意味でラップというのは、何にでも合わせられる音楽と考えるのが妥当ではないかと思うようになったんです」
「何となく分かる気がするけど、でも、それとモノを捨てられない意識とがどう重なるんですか?」
「世の中には、一杯興味を持って、いろいろなものを買う時には一気に買う人がいますよね。でも、それが最終的にはどうなってしまうか? 最近よく聞く言葉として、断捨離というのがありますよね。必要がないと思うもの、つまり不要なものを減らして、生活に調和をもたらそうとする思想ですよ。結局ほとんど何も残らないと言ってもいいんじゃないですか? 逆にはモノを捨てられないと思い込んでいる人もいますよね?」
という宇月さんに対し、
「そうですね、でも僕の場合は後者かな? これは今までの経験から言えることなんですが、あれは小学生の頃だったか、小学生というと、僕だけに限らず、面倒くさがって片づけることを嫌う子供が多いじゃないですか。そんな時、母親が片づけをしない僕に怒ってある日、ほとんどのものを捨てちゃったんです。もちろん、おもちゃのような大人から見れば大したことのないものばかりですよ。でも、子供の自分とすれば、何が必要だったのか何が不要だったのかなどというものを理解できる前だったので、いきなり捨てられて、かなり大きなショックを受けたんです。そのおかげで『モノは捨ててはいけない』という考えが頭を巡るようになったんですね。もし捨ててしまって、それが本当に必要なものだったらと考えると、怖くて捨てられないじゃないですか」
というと、
「そのお気持ちはよく分かります。特に子供の頃というのは、どうしても親に反発したくなる。時に自分がこれからしようと思っていることを先に言われたりすると、子供なりに屈辱感はすごいものですからね。だから、その屈辱感をなるべく味合わせないようにしないといけないと思って教師をしているんですよ」
と、宇月さんは言った。
「それはそうでしょうね。子供には子供なりのプライドがあるし、特に子供は親だって自分たちと同じ世代を生きてきたという思いがあるから、今の自分と同じ思いがあるものだって思い込んでいるんですよ。だから、子供とすれば親に対して、どうして分かってくれないのかという思いが強く頭にあるんですよね」
「それは親も同じかも? 自分の腹を痛めて産んだ子だと思うと、自分の気持ちは絶対に分かるという思い込みのようなものがあるのかも知れないわ」
「とにかく、僕はそんな親から、大切なものか大切でないものなのかの区別もつかない頃にほとんど捨てられた経験があるので、大人になった今でも、本当は判断ができるのかも知れないけど、いらないと思って捨ててしまって後で後悔するようなことはしたくないんです」
というと、宇月さんは落ち着いて話し始めた。