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音楽による連作試行

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 元々はクラシックやジャズを発送して、妄想の世界から始まったものが、行き着く先をポップスに落ち着いてしまうというのも、どこかおかしな気がする。その理由は定かではないが、そうなってくると、今までのプログレ路線を踏襲していきたいと思っている人の音楽性とが真っ向から対決することになる。バンドとして長続きしないのも当然だ。だが、同じプログレという土俵で、音楽性の違いを感じ、違うバンドに移籍するのとでは全然違っているように思う。
 そしてもう一つ、川島がプログレに感じている自分との共通点があるのだが、それが、
「人と同じでは嫌だ」
 という感覚だった。
 今ではほとんど活動しているバンドもほとんどいなくなり、
「プログレッシブロック」
 などという言葉も、知っている人はほとんどいなくなってしまったことで、忘れ去られた過去の音楽となってしまった。
 そんな音楽を誰も聴く人はいない。
 つまり人がしないことをするのが好きなのだ。
 そして、川島の嫌いな言葉としては、
「ミーハー」
 であった。
 もし、今プログレが人気であれば、それこそミーハーなのだろうが、完全にブームが去ってしまったもので、誰も聴かない素晴らしい音楽。それがプログレだと思っている。
 今の音楽は、昔の音楽しか知らない人が聴けば、
「果たして音楽と言えるのか?」
 というところまで来ているのかも知れないが、画期的なという意味でいけば、プログレが出てきた時も、それまでの音楽しか知らなかった人たちには、
「これが音楽と言えるのか? 音楽というのも来るところまで来てしまったのではないか?」
 とでも言われていたかも知れない。
 画期的な今までになかったことをやろうとすると、素晴らしいと評価されるか、逆に
「これはもうすでに〇〇ではない」
 などと言って、嘆かれるかのどちらかであろう。
 両極端な評価に対して、皆どちらを感じるかということだ。
 今、プログレを聴いて、今の音楽しか知らない人の中には、
「これは斬新だ。まさか半世紀も前の音楽とは思えない」
 と感じる人もいるだろう。
 だが、考えてみれば、クラシックだって何百年も前から作曲され、何百年もの間演奏され続けてきた。無双の音楽だと言っても過言ではないだろう。今のように、五年や十年で新しい音楽がブームとなって生まれては消えていく時代には考えられないことなのかも知れない。
 そういう意味では、十年近くもいきなり生まれた音楽が、世界中をあっという間に席巻し、ブームとなったのは、紛れもない事実である。
「何かきっかけがあれば、不可能だと思ったこともできないわけでもない。そして、そのきっかけというのは、近づいてくると、きっとピンとくるものがあるはずだ」
 という感覚を、三十七歳になった時、川島は感じた。
 それはまるで、今の時代にプログレを聴いてみようと思い、ふとしかきっかけであったが、聴いてみたことで、まるで身体に電流が走るかとでも思ったほどの刺激が、身体を駆け抜けたような感覚があったからだ、
 言葉でいうと、大げさになりかねないが、人との出会いは運命の相手だと思えば、身体に電流が走るか、あるいは、爽やかな風が、爽やかな匂いを連れてくるかのように感じたことから始まるかのようである。
「もう、結婚なんてしなくていい」
 と思っていた川島に、走った電流であった。
 相手も同じバツイチで、彼女とは、本屋で知り合った。最近は本屋もどんどん減ってきて、大きな街にでも、一軒か二軒ほどしかなくなってしまい、客が集中するかと思いきやそんなこともない、スマホを使って電子書籍を読む人が増えたということなのだろうが、それ以上に活字離れの方が酷いのかも知れない。
 マンガであれば、まだ読む人も多いだろうが、それも電子書籍で買う。本屋に行く手間も省けるし、読み終わった後の始末にも困らないからだ。
 以前であれば、お金を出して買った本なので、部屋に本棚を置いて、読んだ本をどんどん重ねていくのが一つの楽しみだったのに、今ではそんなこともない。引っ越しなどの時には邪魔になるだけだし、古本屋に売ったとしても、百冊以上売っても、数百円くらいにしかならなかったりする。持っていくだけで大変で、時間と労力の無駄とはこのことといのだろう。
 それくらいなら、燃えるゴミに捨てる方がいいくらいだ。ただ、ゴミの選別も今は厳しくなっていて、しかも自治体によって違うので、厄介だ。この街では普通に燃えるゴミでいいが、他の街では、紙ゴミとして別にしなければならないなどという制約が市町村によって違うのだ。
 そのせいもあってか、他にも理由があるのか、たぶん、活字離れが決定的なのだろうが、本が致命的に売れなくなった。文庫として発行しても売れない。昔であれば、有名な小説家の本は、ことごとく文庫本として発表され、一人の作家の本が百冊近くになったりしたもので、少々大きな本屋になら、そのほとんどが並んでいた。しかも、売れる本は数冊が並んでいるのだ。
 しかし、あれはバブルが弾けてくらいからであろうか。それまで書けば出版をしていた本が再編集となり、今までは百冊近くを敢行していた作家の本が、売れ筋だけを再発行するということで、十数冊にまで激減し、これも売れる本だけが、一冊置いてある程度になっていた。
 昔しか知らない人が急に本屋で昔のイメージを想像しながら文庫本コーナーに行けば、お気に入りの作家を見つけることができるだろうか。一列丸ごとその作家だったのに、今では一、二冊あればいいくらいになっている。
 ただ、ブームになっている本はこれでもかとばかりに平済みされている。ポップもふんだんに飾ってあったりして、あからさまに売ろうとしている魂胆が見え見えであった。
 しかも、それは一軒の本屋だけのやり方ではなく、このあたりは本屋間でも競技しているのか、売ろうとしている本は共通している。そうやって本屋業界を活性化させていかなければ、本屋として生き残ることができないのだろう。背に腹は代えられない。本屋同士て競争している場合ではないということなのだろう。
 だが、同じメディア発信の業界として、本屋よりも深刻なのは、CDショップではないだろうか。
 本屋はまだ大きな街に行けば数軒は見ることができるが、CDショップは大きな店に行っても、ほとんど見かけることがなくなった。一軒でもあればいい方で、以前は大きな本屋や大きな電気屋のワンフロア―の一角にCDショップがあったものだが、最近では見かけることもない。本屋に隣接しているものとしては、文具売り場であったり、カフェがあるくらいではないだろうか。
 これは完全にネットの普及によるものであろう。音楽ダウンロードさえすれば、店に買いにいくこともなく音楽だけをダウンロードできる。CDを買ってきても、どうせダウロードしなければいけないのだから、飼いに行く手間が省ける分、いいというものだ。
 そして、これは本にも言えることだが、アマゾンなどのようなネット販売があることから、いちいち店に行かなくてもネットで購入し、宅配で持ってきてもらえるのだから、本屋もCDショップの需要はグッと下がるというものだ。
作品名:音楽による連作試行 作家名:森本晃次