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音楽による連作試行

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 と言っていた時代があったが、その時いきなりぶつかるか、ギリギリまで引っ張ってしまって、どうしようもなくなって離婚するかだけの違いであり、
「離婚する夫婦というのは、ほとんどの場合、最初から無理なものを強引に引っ張っただけの結果でしかないんだ」
 と今はそう思えて仕方がなかった。
 そう思うと、川島は、結婚というものが、本当に正解なのかということを考え始めた。
「結婚は人生の墓場」
 という言葉を、昔は笑い飛ばし、
「そんなことは離婚する人の言い訳に過ぎないよ」
 と思っていたが、自分がその立場になると、
「人生何が起こるか分からない」
 と、まさにそれを実践しているようではないか。
 そのことを道化師に教えられようとは、それから少しの間、自分の夢の中によく道化師が出てきていたように思えたのだった。
 そんな道化師が、何度も合っていると、まったく表情に変わりはないくせに、今どんな表情をしているのか分かる気がしてきた。
 何がいいたいのか、何を考えているのかなど、本人にしか分からないことが、こちらに分かるわけではなかった。だが、喜怒哀楽が分かるというだけでも、相当距離が縮まったような気がした。
 もちろん、相手は喋らない。喋らないから道化師なのだが、相手の喜怒哀楽が分かるようになってくると、
――この人、一体、どんな顔をしているのだろう?
 と考えるようになった。
 そもそも、相手の表情を分かるというのは、その人の顔を土台に、想像できるもので、元々の顔が分からないのに、表情を想像できるというのがおかしな話だった。本末転倒を地で行っているような気がして仕方はない。
 そんなことを考えていると、道化師の顔が次第に想像できるような気がしていた。
――相手が顔を隠すのであれば、こっちは勝手に想像すればいいんだ――
 と思い、道化師にふさわしい顔を想像してみた。
 想像というと、やはり自分がかつて見たことのある顔に限定される。それはたった一度でも構わない。深い印象に残っているのであれば、それもありであろう。今目を瞑って最初に浮かんできた顔が、その候補であると思った川島は、目を瞑ってどんな顔が浮かんでくるのかを考えてみた。
 実際に目を瞑ると浮かんできた顔があった。その顔はいつも真面目な顔をして、喜怒哀楽の表情を見たことがなかったことに気が付いた。だが、その顔はそんなに頻繁に見る顔ではなく、そのくせ一番自分に近い、いや、この表現には語弊があるが、そう感じる相手だった。
 何しろ、瞼の裏に浮かんだのは、自分の顔だったのだ。
 自分の顔はそんなに頻繁に見るわけではない。自分の顔を見ようとすると、必ず鏡のような何かの媒体が必要である。女性であれば、化粧のために、毎日見ることになるだろうが、男性の自分は、そんなに頻繁に見るわけではない。ナルシストでもないなら、男性が自分の顔を見る時というのは、
「忘れた頃に」
 というのが普通ではないだろうか。そんなに毎日自分の顔をチェックするわけではない。それこそナルシストだというものだ。
 想像した顔が自分の顔であることが分かると、その顔に浮かんだ表情は、どうしても無表情でしかない。鏡に向かって表情を作るなどということは、考えただけでも気持ち悪いからである。
 だから、目の前にいる道化師の顔にもくま取りがしてあって、その表情を垣間見ることができないようになっているのだろう。
 それなのに、どうして表情を想像することができたのか、それは不思議でしかないのだが、今の自分の心境を道化師の想像する表情が表しているというわけではないようだ。ただ自分が気まぐれに想像できるだけで、想像したその先にある顔を本当に自分もすることがあるのか、あるいはしたことがあったのかどうか、疑問であった。
 自分がそんなに表情が豊かだとは思っていない。子供の頃ならいざ知らず、大人になって泣いたこともないので、悲哀の表情も自分ではよく分からない。怒ったことは結構あるが、喜怒哀楽の中で一番多いといえば、怒りの表情ではないだろうか。喜んだ表情もないわけでもないが、それも人生の節目であったかどうかという程度で、極端な話、人生の節目が定期的にあったのは、大学を卒業するくらいまでであっただろうか。それ以降は結婚した時くらいで、あとは、毎日を適当に生きている。それは自分だけに限らず、誰もがそうではないかと思えるのだ。
 道化師の喜怒哀楽が分かると言っても、
「あ、今笑った。悲しそうな表情をしているんだ」
 と感じるだけで、どんな表情をしているのか、想像できているわけではない。
 相手の表情を理解するために想像した顔はあくまでも無表情な自分の顔というだけで、自分の顔が表情豊かに想像できたわけではない。
 もしできたとすれば、それは、
「想像」
 ではなく、
「創造」
 ということになるのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、いくら夢の中とはいえ、相手の顔がハッキリと分からないとはいえ、
「ドッペルゲンガー」
 という発想が頭に浮かんできたのだ。
 本当は想像もしたくない話である。自分が、自分と同じ人間が、同一時間同一次元に存在しているわけである。
「パラドックス」
 を超越した発想である。
 ドッペルゲンガーというと、もう一人の自分であり、決して自分に似た人間というわけではない。
 ドッペルゲンガーには特徴があり、一つは喋らないというものがある。これは自分だけの発想であるが、喋らないということから、夢ではないかと思うのだが、この道化師も喋らないという意味合いから、夢の中で自分が創造した架空の世界なのかも知れないと感じていた。
 そして、もう一つの特徴としては、
「本人の出没する範囲以外には現れることはない」
 というものである。
 つまり、外国に行ったことのない人を外国で誰かが見たといえば、それはまず本人でないことh確かだが、ドッペルゲンガーでないということだ、いわゆるよく似た他人というだけのことである。
 他にもいろいろ共通点はあるが、大きなところとしては、この二つくらいではないかと思えた。
 そしてドッペルゲンガーというのは、
「見ると、近いうちに死んでしまう」
 という都市伝説があった。
 かつての歴史上の著名人が何人もドッペルゲンガーを目撃し、死に至ったという話が伝えられている。
 リンカーン、芥川龍之介などはその最たる例であり、そのことを裏付けるエピソードや逸話が残っているのが実情であった。
 だが、そのどれもがまるで夢のような話であり、どこまで信憑性があるのかというのも難しいもので、川島にとっても、なかなか信じがたいという思いが強かった。
 しかし、夢に出てきた道化師の存在は、あきらかに川島に対して、ドッペルゲンガーを意識させるものではないか。
作品名:音楽による連作試行 作家名:森本晃次