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音楽による連作試行

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 夢だったのかも知れないが、あの歯が自分の首に落ちてきて、ゴロンと転がる光景を見てしまったような気がした。はねられた首を自分で見れるのだから、その時点でおかしいわけで、夢だと思う決定的な瞬間でもあった。その首を誰かがどこに持っていくのか、夢の中で見ていたような気がする。
 男にとって、はねられた首の扱いはいい加減だった。自分の意識としては、しばらくの間晒し首にされて、民衆から石でも投げられるという印象だったが、どうもそうではないようだ。
 なぜ首をはねられることになったのかということが問題であり、断頭台が何を意味するものなのか、そこからしか意識がないので、まったく分からない。
 晒すだけの価値のない首ということであろうが、となると、自分はその国の君主ではなくただの罪人として首をはねられたことになる。だが、罪人であっても首をはねるくらいなのだから、見せしめというものがあってもいいはずだ。それすらないというのは、合点がいかない。
 晒されなかったのは幸いなのかも知れないが、それならそれで首をはねられなければいけないのか、いかにも意味不明であった。この国の風習が、日本人として育ってきた平和の中での自分たちには想像もつかないことが行われたのだろうか。
 そんな時代背景を感じていると、クラシックから目が覚めると、そこには光が満ちている世界が想像できた。
 同じ喫茶店であるが、白い壁を基調とした、まるで、
「お菓子の家」
 とでもいうような、軽くてすぐに吹き飛ばされてしまいそうなお店の雰囲気を感じていた。
 出窓には花が一杯咲いていて、真っ赤な色が目立っている。光の加減ではピンクにも見えるが、場合によっては、真っ赤に滴る血の色にも感じられたが、まったく気持ち悪いという感じがしなかった。
 さっきまで、ギロチンではねられた自分の首を見ていたはずなのに、同じ鮮血の色でも、背景や雰囲気がまったく違えば、気持ち悪さという感覚はほとんど消えてしまうのではないかと思える瞬間だった。
「どこを開いたのか、まったく違う世界に入り込んでしまったんだ」
 と感じた。
 ひょっとすると、
「これは夢の世界に限らず、現実の出界でもありえることなのかも知れない」
 とも感じた。
 普段であれば、必ず雰囲気は背景が違う世界に飛び込む時には、その間にいったん現実世界が絡むことで、一気に目覚めずに進んだという意識がないので、同じ色のものを見ても、一度意識が覚めてしまっているということで、世界を超越したという意識も、夢の続きを見ているという意識もないのではないだろうか。
 考えてみれば、一度夢から覚めてしまうと、どんなにその夢の続きをみたいと思っても見ることはできない。そこで考えられるのは、
「本当は夢の途中で目が覚めたと思っているけど、最後まで見ていたのではないだろうか?」
 という思いである。
 夢は目が覚めるにしたがって忘れていくものだが、覚えている夢もある。だが、夢をすべて覚えていないということがあるせいで、夢には覚えている部分と忘れている部分が存在するという意識よりも、
「最初から、途中までしか見ていない」
 と思う方が、幾分かしっくりくる。
 この感覚が、大きく意識の中で夢と現実を隔絶させる力を持っているのではないだろうか。
「お菓子の家」で音楽を聴いていると、イメージは朝の、モーニングサービスの時間帯だった。
 白い壁を見ていると思い出したのは、大学時代に友達と一緒に出掛けた、ある高原でのペンションに泊まった時だった。
「そうだ、確かにあの時、出窓に真っ赤な色の花だったかがあった気がした」
 それを思い出した時、白い出窓の桟の部分に、同じ白い色でもフワッと膨れ上がっているのが見える、
「あれは雪だ」
 と思うと、出窓の床板の部分に乗っている真っ赤な花の正体が分かった気がした。
 そう、あれはクリスマスの時期になるとよく見かける、
「ポインセチア」ではないだろうか。
 ポインセチアを見て、鮮血を思い浮かべる人はまあいないだろう。真っ赤な花の部分(本当はつぼみの部分であるが)に対し、綺麗な緑色の葉っぱが綺麗にマッチしていることから、鮮血だとは普通は思わない。
 しかし、ポインセチアが、
「クリスマスフラワー」
 と呼ばれる所以であることから、キリスト教徒深いゆかりがあり、ポインセチアの赤い色は、キリストの血の色に例えられたりする。
 そういう意味では、血の色を連想するのは、正しい連想であって間違いではない。したがって、血の色を否定することはまったくないのだ。
 そんなポインセチアを想像していると、まわりからクリスマスソングが聞こえてくるような錯覚を覚える。
 しかも、なぜか雪の中を昔でいうチンドン屋が道化師を連れて歩いている。その光景は滑稽であり、聖夜と呼ばれるのに不釣り合いに感じられるが。そもそもクリスマスというのは、師走の忙しい時期の、ピークにも当たっていて、昼間がせわしないのも当然と言えば当然のことである。
 チンドン屋の流す音楽。一種の大道芸であり、人を集めて、何かの宣伝を行ったり、パフォーマンスを示すことで、何かを人に訴えようとしている。
 そこでの主役はピエロと言われる、
「道化師」
 であるが、顔がハッキリとしないようなおどけた表情のくま取りをしており、その扮装の滑稽さが、人の注目を集めた。
 しかし、素顔が見えないことから何を考えているのか分からないという宇津気味悪さも否定できない。人によっては、ピエロを見るだけで、
「怖くて怖くて、足が竦んでしまう」
 という人もいる。
 基本的には宣伝マンとしての仕事であろう。何かのお店の新装開店であったり、同じ大道芸として、サーカスや見世物小屋ができれば、その宣伝にやってくる。見世物小屋もサーカスも、どうしても天幕を張っての興行となるため、街中ではできない。少々大きな公園で、許可を得て興行を打つというのが一般的で、そうなると、宣伝しなければ普通の人は知らないのも当然だからだ。
 今のようにテレビがあれば、宣伝効果もあろうが、あったとしても、テレビの宣伝にはお金もかかる。そういう意味ではチンドン屋を自前で持っていれば、宣伝広告費は彼らの人件費で賄える。宣伝広告だけのために雇っているわけではないだろうから、彼らを使うことは経費の節減には十分であった。
 滑稽な音楽を自らぶら下げている楽器を使って演奏し、手の持ったビラを盛大にばらまく、拾ってくれる人はそれんりに興味を示すだろう。拾ってくれない人であっても、手を差し出してもらおうとする。それだけでも宣伝効果は成功と言えるだろう。
 今ではまず見ることのなくなってしまった道化師は、年末には恒例のものであった。サンタクロースのように、顔は分からないが、覆面を被っているわけではない。普通の変装を施していてもまったく違和感のない時期、それが十二月という慌ただしい時期であった。
 宣伝効果、いわゆる訴求力というものである。
 いわゆる、
「相手の購買意欲に働きかける」
 というわけだが、
「広告、宣伝が視聴者は見物人を対象に訴える力」
 それが、訴求力というものである。
作品名:音楽による連作試行 作家名:森本晃次