短編集104(過去作品)
彼女の名前はちはるという。ひらがなで「ちはる」と書くのであるが、元々ひらがなの名前が好きな父親がつけた名前で、最初から女の子であれば、これにすると決めていた名前だということである。勝則もちはるという名前は好きな方だったので、雰囲気とちょうどマッチした名前を聞いたことで、意識するようになっていた。
――最初から惹かれるところがあったな――
知り合うべくして知り合った仲というのがあるらしいが、ちはるに運命的なものを感じていた。
今までに勝則は他の女性と付き合ったことはあったが、なぜか長続きしない。勝則が求めているものと、付き合う女性とがどこか違っているのが原因ではないかと勝則は考える。
別れ話はいつも女性からである。付き合い始めるのに最初に意識するのは女性からの方が多いのに、別れる時は女性からというのは、それだけ意識の差があるからに違いない。
――女性の気持ちが変わっていくんだ――
とずっと思っていたが、いつも付き合い始めてから別れるまでのパターンが似ている。原因はやはり勝則にあるのだ。
――別に高望みしているわけではないのに――
何事も先々を読んで行動するくせを持っているので、それを察知されると相手が落ち着いた気分になれないのかも知れない。
勝則の考え方として、
――まわりの人はすべて自分よりも偉いんだ――
と思う癖があった。
何を持って「偉い」というのかは分からないが、
――自分にできることは絶対に相手にもできる、相手にできないことは絶対に自分にできるはずはない――
という考えだった。
それを自分では謙虚な考えだと思っていた。だが、よくよく考えると、逃げているということにはならないか、そのことに最近ウスウスだが気付き始めていた。
しかし、元々無意識に気付いていたのかも知れない。だからこそ、何事も先々を読んで行動するくせを持っていたのかも知れない。田舎に来ることで、夜の海で波に揺られる釣り糸を眺めていることで、そのことを考えるであろうと旅行に来る前から意識していたのは否定できない。
そんな思いを抱いていたのに、宿に来て一人の女性を意識することになるとは思ってもみなかった。いや、予約の時に聞いた声に最初から勝則は興味津々だったことは間違いではない。素朴な声にどこか垢抜けした雰囲気、どんな女性なのか想像し続けていたはずなのに、顔を見た瞬間に、想像していた雰囲気が消えてしまった。
――きっとあまりにも自分が想像したとおりの女性だったからに違いない――
勝則の意識は、
――ずっと前から知り合いだった――
という気持ちに至っていたのである。
食事が済んで、一風呂浴びた。露天風呂があるようで、泊り客が誰もいないということで、貸切である。
汗を流してから感じる潮は、最初に感じた潮とはまったく違っていた。身体にへばりつくような重たい湿気はすでになく、風が吹けば心地よさまで運んでくれるほどであった。
釣りの道具を持って防波堤に出かける。波が防波堤に跳ね返って鈍い音を立てているが、すべては列車の中で想像していた通りの雰囲気である。
よく釣れるというところは女将が教えてくれた。ちはるが案内してくれるということである。
「他にお客もいないので、二人でゆっくりしておいで」
女将はそう言って送り出してくれた。
まだ宵の口なので、それほど遅くまで釣りをしないと最初に話していたので、女将も安心しているのだろう。
防波堤にある小さな灯台の横で釣り糸を垂れる。最初は一人で物思いに耽るつもりだったが、隣に意識している女性がいるというのも悪くない。
「私、最初釣りって好きじゃなかったの。だって、釣り糸を垂らしているだけで、じっとしていないといけないでしょう。よく皆耐えられるなって思っていたの」
釣り糸と海面を凝視しながらちはるが話してくれた。
「今はどうだい?」
「元々、私の場合は、友達が何かをしていると、その横でじっとしているのがあまり苦にならないみたいなの。友達からはいいお嫁さんになるわって冷やかされているけど、でもそのことに気付かせてくれたのも、釣りだったのね」
ここでは釣りを抜きにして生活を考えることはできないようだ。自分の性格を司る根底にも釣りが影響していることにどこかの段階でちはるは気付いたに違いない。・
「いいお嫁さんか。そうだね、三行半っていう言葉もあるしね。でも、三行半の女性って、意外と自分の考えをしっかり持っている人が多いって聞くよ」
「そうかも知れませんね。私もきっと自分の考えをしっかり持っていると思っているんだけど、まわりの人を見ていると、自信が持てなくなることってあるでしょう?」
どうやら、嫌が上にもまわりを意識してしまうのは勝則だけではないようだ。大なり小なり誰でもそうなんだと思っていたが、口に出して話をするのはタブーだと思っていた。ましてや初めて会う人である。
――ひょっとして、ちはるも俺のことを初めて会う人だとは思っていないのかも知れないな――
自分にとって都合のいい考え方かも知れないが、それはそれで悪いことではない。人と知り合う時にまず相手の気持ちを知りたいと思うのが当たり前だということと同じレベルの問題のように思えた。
坂下荘での二日間は一週間くらいの気がした。
「私も付き合うわ」
と言って、一度一緒に夜釣りをしたこともあった。
「いいのかい? 仕事がまだあるんじゃないのかい?」
と話した時に、
「大丈夫よ。何かをしたいと思ったら、すべては行動を起こす前に終わらせておくことにしているから」
一瞬耳を疑った。父の教えと同じではないか。
それからちはると一緒にいた二日間の会話はどれが最初で、どれが後からのものか分からないほどに頭が錯乱していたようだ。
これほど錯乱するということは、お互いが意識しすぎて、前から知り合いだったように思うという気持ちも手伝っているのかも知れない。いや、以前から知り合いだったと感じたのは。彼女の口から父の教えの言葉を聞いてからだったのではないかと感じたほどだ。
だが、それだけは違っているようだ。以前から知り合いだったという意識が最初からあったからこそ、ちはるへの意識が最初から強かったのだ。
「今度、そちらに遊びに行ってもいいですか?」
「ええ、ぜひいらしてください」
会話はまだまだ他人事のような丁寧さだったが、心の中ではすでに恋人同士のような意識があった。
本当に二ヶ月ほどして彼女は遊びに来てくれた。ところどころ都会を案内してあげたが、なぜか彼女が一番気に入ったと言ったのは、喫茶「ドメイン」だった。勝則は喫茶「ドメイン」には、都会の中でのオアシスを感じていた。どこか部屋中に感じる森の中のような雰囲気、観葉植物にまわりを彩られ、山の中にでもいるような雰囲気が味わえるからだ。
やはり勝則は海よりも山だった。
海に釣りに行って釣り自体が楽しかったことには違いない。だが、都会に帰ってくると癒しを求めるのは山であった。植物に囲まれた雰囲気を味わえるのは喫茶「ドメイン」だけであった。
作品名:短編集104(過去作品) 作家名:森本晃次