短編集104(過去作品)
と学生時代に友達に誘われたが、暑い時に海に行くとさらに暑さを感じるようで、どうにも納得が行かなかった。誘いはすべて断ってきた。
海で泳いだ記憶というと、中学の時に臨海学校に行った時くらいだろうか。あの頃は、海の暑さをそれほど苦にしていなかったのに、どうして年齢を重ねるごとに海が嫌いになっていったのか、自分でもよく分からないでいる。
砂浜を歩いていると、足が焼けるようだった。スリッパで歩いていても、足の裏どころか、足全体が熱を帯びたようになっている。それが一番直接的に辛かった。だが、本当の辛さは直接的なものよりも、潮の匂いを嗅ぐことで身体にへばりつく湿気た空気に息苦しさを感じることだった。それが釣りとなると、息苦しさを感じることはない。夜釣りが多かったのも影響しているかも知れない。
まさに漁村のど真ん中、意識して歩いていないと気付かないところに目的の宿「坂下荘」があった。いかにも普通の家と言った雰囲気は、これぞ民宿を思わせる。想像したとおりだった。
民宿に泊まるのは実は初めてだった。友達と釣りに出かける時は友達の車での夜釣りだったので、宿を予約することもなかった。早朝まで釣りをして、昼前に帰り着けば、後は寝るだけだった。友達の家で寝ている時は目覚ましを掛けることもなく、
「腹が減れば自然とどちらかが起きるだろう」
という暢気なものだった。
不思議なことにお互いに腹が減る周期は同じなのか、いつもほとんど同時に起きていた。
「似た者同士だな」
というと、
「人間の周期なんてそれほどバリエーションの多いものではないということかも知れないな」
という答えが返ってきたが、バイオリズムに対してバリエーションという言葉を使うところがユニークで面白かった。
「こんにちは」
開けっ放しになっている玄関から奥に聞こえるように声を掛けた。
奥までは玄関から続く廊下が一本通っているだけの単純な造りになっているが、本当に民家を改造して民宿にしたという雰囲気がそのまま現われている。風通しもよさそうで、部屋が想像できそうだった。
「いらっしゃいませ」
掃除をしていたのか、奥から女の子が現われた。アルバイトなのか、ここの娘なのか、美人というよりも愛らしい雰囲気が、日本家屋にアンバランスさをもたらしていた。
「予約を入れておりました野崎ですが」
「ああ、野崎さん。お待ちしておりました。お疲れになったでしょう?」
と言って、さらに笑顔で答えてくれた。
――どんどん笑顔になっていくが、これ以上笑顔になれば表情が本当に崩れてしまいそうだ――
田舎の素朴さだけではなく、どこか垢抜けた雰囲気は、まさしく予約を入れた時の電話の主であると確信してもいいだろう。
「予約を入れた時に電話に出ていただいた方ですよね?」
「ええ、そうですよ。常連のお客さんが多いので、大体のお客さんは分かるんですが、野崎様は初めてのお客さんということで、私も楽しみにしておりました」
靴を脱いでスリッパに履き替えると、彼女は荷物を持って勝則が立ち上がるのを待っていた。
「どうぞ、こちらです」
案内してくれた部屋からは、海が一望できる。畳も昔の大きさなのか、部屋に広さを感じる。海の見える窓際は縁側になっていて、安楽椅子が置いてあるのには気に入った。
――ここでゆっくり読書などするのもオツなものだな――
部屋にはクーラーもついているので、湿気による暑さを感じれば、クーラーをつければいいだろう。部屋をゆっくりと見渡した後は、まず安楽椅子に腰掛けて海を見てみたかった。
安楽椅子に腰掛けている姿を何も言わずにじっと見ている彼女に勝則は気付かなかった。海を見ていると、ずっとこのまま時間を忘れて見入ってしまう気がしてしまいそうなのだが、そんな姿を彼女も何も言わずに見つめている。しばしの沈黙が続いた。
――安楽椅子がこんなにも落ち着けるとは思ってもみなかったな――
きっと日本家屋に初めて泊まるというシチュエーションに酔っているからだろう。安楽椅子はしっかりと深く勝則の身体を包んでくれているようだ。
疲れからか、睡魔が一気に襲ってきた。あまり乗ることのないローカル線に揺られたのも睡魔を誘った原因かも知れない。
本当なら列車の中で眠くなってもしかるべきであった。以前から列車の中で眠くなることはあったからだ。通勤電車で眠くなるのは仕事で疲れているからに違いないが、一番の原因は、揺れにあることは分かっていた。
旅に出ると、忘れていた興奮を思い出す。小学生の頃、遠足の前日など興奮して眠れなかったではないか。旅行の日になればそれほどでもないのに、前日にあれほど興奮するのは、勝則が想像力豊かな少年であったということ、そして、毎日の決まった生活に不満はなかったが、
――どこか遠くに行きたい――
という気持ちを常に持ち続けていた少年であることを表している。どちらの気持ちが強かったのかは分からないが、その気持ちが今でも残っている証拠である。
――気がついたら眠ってしまっていた――
ということは今までにも何度かあった。しかし、その時は眠りに落ちる自分が分かっていたのだ。分かっていて、彼女が何かを話そうとしているのを聞いてあげようと思いながら意識が遠のいていた。
――こんなことって今までにもあっただろうか――
と感じながら眠りに落ちていく。
そして眠りに落ちる瞬間が分かったような気がした時、
――以前にもあったような気がするな――
と感じた。それが夢で感じたのか、眠りに落ちる前だったのか、どちらなのかと聞かれれば自信を持って答えることは勝則にはできない。
そんな時の睡眠時間は意識としてはあっという間だった。
実際に時計を見ると約三十分ほど寝ていたことになるが、何となく夢も見ていたように思う。その夢の内容までは思い出せないが、目覚めは決してよいものではなかった。
完全に目が覚めるまでにはいつもよりも時間が掛かりそうだった。心なしか頭痛もする。しかしこの頭痛は、眠りが浅かった時に感じる頭痛であって、目が覚めてくるにしたがって引いてくるものであることは分かっていた。
――釣りの夢を見ていたに違いない――
内容を覚えていないくせに、妙に自信があった。
目が覚めた時に最初に感じたのが鼻を突く潮の匂いだったからだ。普段はあまり気持ちのいい匂いではないが、その時だけは夢心地の延長で、嫌な臭いだとは思わなかった。
――潮が呼んでいる――
とまで思ったほどで、時計を見るとそろそろ夕方、夕食を食べて夜釣りに出かけるにはちょうどいいだろう。
夕食は豪華というよりも家庭料理の雰囲気だった。部屋に持ってきてくれて食べるわけではない。
「今日は他にお客さんは誰もおりませんので、どうぞこちらで私たちと一緒に食べませんか?」
と彼女が誘ってくれた。
宿は女将と、彼女の二人だけのようで、彼女は女将の娘ということである。
父親は漁師で、ちょうど今遠洋漁業に出かけているということだ。さすがにこれほど小さな漁村だけの陸揚げではなかなか生活ができないということで、時々街の漁協の人たちと船に乗るということである。
作品名:短編集104(過去作品) 作家名:森本晃次