短編集104(過去作品)
特に勝則はそうだった。父親に対して絶対というメッキが剥がれはじめると、それまでの父親に対してのイメージが拭い去れないだけに、表に付いてくるのは滑稽なイメージだ。
――裏表が見えるようになった――
それは性格の裏表ではなく、表面上に見える裏表である。それを勝則は決して悪いことではないと思っていた。
父の晩年はそれまでになかったほど丸いものだった。
だが、そのことを思い出したのはずっと後になってからで、死んでからすぐは、厳格な父しかイメージはなかった。
それだけに、棺の中で腕を組んで冷たくなって眠っている父を見ていると、永遠に厳格なまま死んでいったというイメージを拭い去ることができなかったに違いない。だからこそ丸くなったイメージが頭の中で封印され、いつの間にか父に対するイメージが自分の中で誇大に評価されてしまっていることに気付いていなかった。
「風林火山」を思い浮かべる。そういえば、顔の雰囲気も軍配を手に持った武田信玄の肖像画を思い浮かんでくるのは、偶然ではなかろう。小学校の教科書で初めて武田信玄の肖像画を見た時、
――お父さんみたいだ――
と感じたことを思い出したのも、棺の中に収められている父親の顔を見た時だった。
冷たく硬くなっている父親を見て、
「皆、最後はこうなっちゃうのよね」
と一言母が呟いたが、その言葉の意味が最初はよく分からなかった。
母も父に対して近寄りがたい何かを感じていたのを分かっていたが、その父が二度と目を開くことがなく、口を利くこともないと感じただけで、きっと自分も同じように死んだら他の人からも同じことを思われるに違いないということを重ね合わせてそんな言葉が出たのかも知れない。
父の死が残された母子に与えた影響は数知れずだったかも知れないが、影響があったように感じていない二人であった。
――まるでずっと前からこんな生活だったように思う――
父がいないことでの違和感はない。別に母と二人で助け合って生きているという感じでもない。元々お互いにしっかりしていたのかも知れないが、あまり干渉することもなく、自分の思ったとおりに生活をしている。
勝則は父親が死んでから二年後に家の近くにアパートを借りて一人暮らしを始めた。
別に母親も反対することはない。遠くに行ったわけでもないので、いつでも行き来できるという思いがあったからだ。だが、近いと却って行き来しないもので、
――いつでも行ける――
という思いが強いからか、なかなか実家の敷居は高いものだった。
就職を機会に家を出たわけだが、家を出ることに関しては母にも予感があったに違いない。
母も父が死んでから働きに出ているので、勝則の気持ちも分かっているようだ。主婦の多いパートの仕事、気が合う主婦の人がいるようで、時々一緒に喫茶店で話をしていることもあるという。
「これがお母さんにとっての一番の気分転換なのよ。それにしても昼間の喫茶店というのは気持ちが落ち着いていいわね」
と話していた。
なるほど、母親の話していた喫茶店には、何度か顔を出したことがある。名前は「ドメイン」と言った。もちろん母親と顔を合わせることのない時間で、店の人には息子だということを悟られるようなことはない。常連とまでは程遠いが、時々顔を出してくれる客として、マスターなどが意識している程度だろう。
喫茶店という雰囲気は学生時代から好きだった。
高校時代までは苦くてコーヒーが嫌いだったので、喫茶店とは無縁だったが、大学に入ると嫌でも先輩に連れていかれる。そんな時、
「コーヒーはちょっと」
などというと、まるで子供だと思われると思って、最初の頃は我慢して飲んでいた。
それでも飲んでいるうちに苦さが香ばしさに変わり、香ばしさは香りと店内の雰囲気との調和にマッチする。最初の頃は先輩に連れて行かれてしか来なかった喫茶店にも、一人で来るようになった。
朝などはモーニングサービスの時間があり、それがまた落ち着いた時間を演出してくれる。
――そうだ、俺は喫茶店に落ち着きを求めてやってくるんだ――
それまで本など漫画しか読んだことがなかったが、文庫本を買って読むようになった。それも心の余裕が落ち着きと結びついた瞬間だったのだ。
厳格な父親から、
「本くらい読んだらどうだ。しっかり教養を身につけないとな」
と言われていたが、反骨精神旺盛だった成長期、そんな話は戯言としか感じていなかった。反抗期が静かにストレスを気持ちの中に蓄積していた頃のことである。だが、それが心の余裕に繋がると分かると、自分の考えで自らが起こす行動を喜ばしいことと受け止める。それが喫茶店での至福の時間に繋がっていたのだ。
父がよく行っていた宿は坂下荘というところのようだ。
年賀状の内容は、生前の父の性格を思わせるような地味なものだが、毛筆で書かれた宛名などから力強さが感じられる。きっと文字のバランスが素晴らしいのだろう。
名前と住所さえ分かれば、電話番号を調べるのは簡単だった。
――まだあるのだろうか――
何しろ名も知らぬ小さな漁村であることは地図を見て分かっていたので、この不景気の折り、ずっと営業しているという保障はない。雰囲気から察するに、常連客で持っているような宿だと思うので、年月が経てば、それだけ常連も減ってくるかも知れない。事実、常連であった父は交通事故とはいえ、帰らぬ人となったではないか。新たな常連客がついていることを願いながら、電話を掛けた。
電話に出てきたのは女性で、声の感じからするとまだ二十代くらいではないだろうか。声の感じだけで女性の年齢を判断するのは危険であるが、訛りの中にどこか垢抜けた雰囲気を感じたからだ。贔屓目で聞いてしまったのだろうか。
予約を入れると勝則は、それまで友達の付き合いでしかやったことのない釣りを勉強しようと、本屋で釣りの本を買ってきて読んでいた。
見よう見まねでもいいのだろうが、せめて餌の選び方、餌のつけ方、釣竿の扱い方くらいは勉強しておいた。釣具は、父のものが残っていたので、母に言って借りることができた。
「あなたが釣りに?」
「ああ、気分転換さ」
どこに行くかはあえて言わなかった。言ったら母がどんな反応をしりか興味があったが、今さら波風を立てるようなことはしたくない。母親が喫茶店で本を読んでいる姿を想像すると、興味よりもソッとしておくことの方を選ぶのは当然のことだった。
釣具を捨てずにそのまま置いていたのは、誰かが使うのを考えてではあるまい。父が大切にしていたものを捨てたくないという思いからだったように思う。堅物に見える父親の唯一の趣味だった釣り、本当は棺の中に入れて埋葬してもよかったくらいなのだが、多すぎてさすがにそこまではできなかった。
坂下荘のある漁村は途中までは特急列車で行けるのだが、ローカル線に揺られる時間も短くはない。
特急列車には一時間も乗っていないのに、ローカル線では二時間以上乗っていることになるので、ローカル線の時間が想像以上に長く感じられるであろうことは予想できた。
作品名:短編集104(過去作品) 作家名:森本晃次