短編集104(過去作品)
姉が中学の時に話していた。まだあどけなさの残る顔だったはずだが、弟の多治見から見れば姉はいつまでも年の差が縮まらない「おねえさん」なのである。大人っぽく見えても当然であった。
――姉は物知りなんだ――
と感じていたのも事実で、
姉が話す言葉の一言一言を、多治見の頭の中では一生懸命に理解しようという作用が働いている。
意識しすぎるというのもあるのか、なかなか一度聞いただけでは理解できないこともあるが、姉はそれを分かっているのか、同じことを何度も話してくれる。姉も誰かに分かってもらいたいという気持ちが強く、中でも弟の多治見に分かってほしいというのが一番だろうと思うのは贔屓目であろうか。
姉が交通事故に遭う夢を見たのはそれからだった。実際に交通事故に遭ってからしばらくは見なかったのに、姉が暴漢に襲われる夢を見た途端、交通事故の夢を見たというのも何かの因縁かも知れない。
夢ではあくまでも多治見は第三者、他人事であるので、何もすることができない。それが一番辛い。
目の前で大切な人が襲われているのに、何もしてやれない。それがもどかしく、夢から覚めたくないという思いと、早く楽になりたいという思いとが交錯する。起きてから汗を書いているのは、自分の中での気持ちの葛藤が汗を掻かせているからに違いない。
第三者であることが夢の中で一番安心でありながら一番辛いことでもある。
姉にしてあげられなかったことが夢の中でのトラウマとなってしまったのではないかと感じる多治見だった。
それから今度は自分が交通事故に遭う夢を見る。
夢の中で匂いなど感じるはずはないと思っているにも関わらず、事故に遭う寸前に感じる匂いがあるのは、なぜだろう?
――まるで雨が降る前のようだなー―
そういえば、空が急に暗くなってくるのを感じる。いつも事故に遭う場所は同じで、同じ時間に暗くなってくるのだ。
雨が降るからだけではなく、時間的にも夕暮れ時、そう、姉が暴漢に刺された夢を見たその時間だった。
姉が暴漢に襲われた夢を見たのは決して偶然ではない。そんな偶然を多治見は信じない。きっと何かがあったことを多治見は予感していたのだろう。姉は話さなかったが、どうやら、誰かに襲われそうになったところ、たまたま近くを人が通りかかったことで、事なきを得たようである。夢がそのことを教えてくれているのだ。
ひょっとすれば姉の勘違いだったのかも知れない。ただその頃、
「誰かに見られているようで気持ち悪いの」
と言っていた。ノイローゼとまではいかないようだったが、悩んでいたのは事実で、被害妄想にまでエスカレートしていたのも事実だったのかも知れない。
姉が交通事故に遭ったのはそんな頃だった。
交通事故に遭う前にそんな被害妄想があったとすればいわゆる
――虫の知らせ――
というものかも知れない。
あまり迷信めいたことを信じる多治見ではなかったが、姉のことがあってから、自分にも虫の知らせがあるのではないかと思うようになっていた。
――何といっても姉弟だからな――
性格的にあまり似ているところはないと思っていたが、最近では、
「あなたとは一足す一が二だという単純なものではなく、三にも四にもなるような気がするわね」
と姉から言われて、その気になっていたもの事実である。
――お互いにいいところの相乗効果があるんだな――
と感じていたが、ひょっとして悪いところの相乗効果がないとも言えない。虫の知らせにはいいこともあれば悪いこともある。その思いが強かった。
虫の知らせを感じるようになってから、お互いに知らないはずのことを知っていることが多くなった。多治見の場合は夢に見たことが実際に起こったりするのである。姉の場合も同じだろう。
夢について姉と話したことがある。
「私たち、同じ夢を見ていることがあるのかも知れないわね」
姉が夢に出てくることは決して多くない。しかも夢を見るとしても、過去の姉の夢である。自分が大学生なのに、姉が小学生だったりする。だが、そんな夢も同じ時期に姉は同じ夢を見ているらしい。
その夢には多治見は出てこない。あくまでも夢の中の主人公である小学生の姉と、実際に夢を見ている第三者としての姉だけだった。逆に姉が多治見の小学生の頃の夢を見ている時は、多治見自身、夢の中で姉の存在を知らない。
「だから、お互いに同じ夢を見ているという意識がないのかも知れない。意外と誰も口にしないだけで、夢を共有していたりするのかも知れないな」
多治見の話を聞いて姉は頷いていたが、果たしてどこまで理解して頷いたのか分からない。だが、姉弟の間に、他の人にはない何かが存在していることだけは感じていることだろう。
夢の中に色や匂いがないということは暗黙の了解のような気がしていたが、それでも、
「俺は夢で色や匂いを感じることもあるんだ」
というと、
「あなたもなの? 姉さんもなのよ」
と、二つ返事で帰ってきた。
自分が交通事故に遭う夢を、姉に話してみた。
「姉さんも見たのよね。あなたが交通事故に遭うところ。でもあなたに心配を掛けたくなかったので黙っていたけど、本当に気をつけた方がいいわよ」
「うん、分かった」
姉さんは自分が交通事故に遭った時の話を一言もしようとはしない。多治見も同じ夢を見たと話した時に、弾みで自分も見たと話しただけのようだ。
「でも、何か虫の知らせを感じるんだ。同じ夢を何度も見るんだよ」
「交通事故の夢?」
「うん、いつも自分が第三者だという意識で安心して目が覚めるんだけど、汗だけはものすごく掻いているんだ。何度も同じ夢を見ていると、その日も夢を見ているという意識が強く働いて、そのうちに、本当に轢かれる瞬間の自分を見てしまいそうで怖くなってくるんだ」
最近夢の中でトラウマになっているのは、同じ夢を見ていることにも現れている。
――姉にしてやれなかったことが、自分を夢の中で袋小路に追い込んでいるんだ――
だから、ひとつの夢から抜けられないという考えである。
元々整理整頓が苦手な多治見に頭の中を整理するのは難しい。ある程度まで覚えると、そこから先は、古い方より片っ端から忘れていっているのだと思っている。当たらずとも遠からじではないだろうか。
トラックが迫ってくる夢の中で、それまでにあった自分の記憶が走馬灯のようによみがえる。死を目前にした人にだけ現れると聞いたことがある感情である。
お互いの夢の中で自分は必ず第三者として夢を見続けなければならない。特に他の人との夢の共有であればそれほど気にすることもないのだろうが、姉との共有だけは、これほど辛いものはない。
――姉との共有だからこそ辛いんだ――
汗が出るトラウマは姉との夢の旧友に自分という立場が第三者であることの辛さからくるものだ。
――夢の中で苦しむ姉――
黙ってそれを見続けなければならない辛さである。
夢に匂いや色があることを夢の中で思い出すことはない。だが、ある日の夢でそれを思い出すことがあった。その夢には姉が出てきていた。
前から姉が駆けてくる。こちらに向って大きく手を振っている。明らかに夢の中の第三者であるはずの多治見に手を振っているのだ。
作品名:短編集104(過去作品) 作家名:森本晃次